第67回:鳥羽・伊勢・松阪旅行―松阪の銘菓「老伴」

 4年前の還暦同窓会の折、友人3人と「一泊旅行したいね」と話が出て、そのままになっていました。今年になって、私が知り合いより「伊勢神宮会館に泊まると6時半から職員の案内で早朝参拝に参加できる」と教えて頂いたので、早速3人に連絡、すぐに賛成してくれて決まりました。Yさんが「2年前に伊勢・志摩旅行をしたが、鳥羽の島に渡って新鮮な魚を食べる予定が台風の為、船が欠航となり断念した。是非こちらも行きたい」ということで、11月13日から15日の2泊のプランとなりました。当然まず神宮参拝をして、その後鳥羽へと行きたかったのですが、神宮会館に電話すると11月13日は団体予約があるらしく宿泊不可。14日ならよいということで、まず鳥羽に行き、ご馳走をいただいてから伊勢でお参りという逆コースとなりました。

 11月13日、私は京都から近鉄特急で鳥羽へ、3名は名古屋から近鉄特急「しまかぜ」に乗り鳥羽で合流しました。ミキモト真珠島で海女の実演を、鳥羽水族館ではジュゴンを見て、鳥羽湾クルーズをした後、目当ての答志島へ行きました。Yさんが予約してくれた宿泊先は、てっきり民宿かと思っていたら創業93年の老舗料理旅館でした。伊勢エビはもちろん、新鮮な魚貝がこれでもかと豪華に並び、中でも秀逸はサワラでした。今が旬というのは翌日の島内散策で知りました。サワラを少しあぶったお造り(刺身)は絶品でした。今回の旅行は近鉄電車の「まわりゃんせ」という伊勢・鳥羽・志摩スーパーパスポート(9800円)を利用しました。特急電車乗り降り自由を始め、バスや定期船、さまざまな観光施設に入場・入館できる特典が付いています。その特典でサワラの鎌の塩焼きがおまけでつき、これも美味でした。翌朝はYさんが手配してくれたガイド付き路地裏散策(一人1500円)です。ご主人がワカメ漁をしているおばさんの案内で、島の祭や漁師の暮らし等、お話を聞きながら狭い路地裏を歩き、魚市場の中まで見学させてもらいました。大人の社会見学みたいで楽しかったです。地理・歴史の教員であるSさんも「こういうの好き」と言っていました。それから定期船で鳥羽に戻り、伊勢へと向かいました。

 神宮会館は内宮の一つ手前のバス停前にあります。荷物を置いてバスで外宮へ。私は内宮には3回行っていますが、外宮は今回が初めてです。外宮をお参りしてから内宮を参拝するのが正式というので、念願がかないました。
 3日目の朝も早起きして、会館ロビーに集合。人数が多かったので10数人ずつ3グループに分かれ、私たちは2番目のグループとなりました。案内人はかなりふくよかな若い女性でした。一番印象に残った説明は、「正宮(しょうぐう)は神恩感謝の場所だから神様に感謝のみをする。お願いをしてはいけない。その後の荒祭宮(あらまつりのみや)は天照大神の荒御魂(あらみたま)をまつる別宮(べつぐう)で、ここは決意表明をすると強い力で後押しをしてくれるので、お願いはこちらでするように」というところでした。案内の女性は初詣の時に「今年は体を絞ります」と誓うそうで笑えました。
 早朝参拝後、朝食を取って会館前の大通りを渡りまっすぐ赤福本店に行きました。ここでできたて赤福2個入りを頂きました。店頭では伊勢茶を焙じたのを朱塗りの竈で沸かしており、こちらも美味しかったです。赤福については拙稿第45回:「お伊勢さん菓子博2017と白い赤福」第48回:「八朔と赤福の朔日餅」にも書きました。

 いよいよ松阪です。松阪城址内に本居宣長の旧居が移築されていました。昼間は医者として診察・往診をして、古典研究、弟子への講釈は夜にしたとのこと。本業が医者だったとは初耳でした。浜松の誇る国学者、賀茂真淵が師匠です。二人が会ったのはたった一夜のみだった、というのは同行のFさんが教えてくれました。手紙のやり取りで教えを請うていたとのこと、つまり通信教育だったのです。旧居に隣接した本居宣長記念館の展示を見て、宣長が記録魔で日記、薬の調合は元より、家計簿まで事細かに付けていたこと、また松阪の人々が浜松の人たちより賀茂真淵を尊敬して大切にしていることに驚きました。

 城跡のすぐ近くには豪商の家がいくつか公開されており、そのうちの一つ「旧小津清左衛門家」に入りました。小津と聞いて、もしやと思いました。日本橋に小津和紙という大きな紙屋のビルがあり、2回ほど書道用の紙を買いに行ったことがあるのですが、まさにここが当主の自宅でした。小津家は松坂商人だったのです。「創業の祖」とされる3代小津清左衛門長弘は、寛永20(1643)年に大伝馬町草分けの「佐久間善八紙店」に奉公の後、承応2(1653)年に同郷の木綿商、小津三郎右衛門道休(本居宣長の曾祖父)の資金援助200両(現在の2000万円)と小津屋を名乗ることを許されて大伝馬町一丁目に紙店(小津屋)を開業しました。紙の時代と言われた元禄文化の興隆もあり、紙問屋40余店を束ねるほどになったということです。元禄11(1698)年には隣地へ木綿店(伊勢屋)を開業しています。商売は江戸店(たな)ですから松坂のここは当主宅ですが、その大きさには度肝をぬかれるほどです。案内をしてくれたおじさんの説明によると、「家の前はお伊勢参りの参宮街道になっており、江戸時代のおかげ参りブームで年間300万人、1日に1万人もの人が通ったので、当然宿など足りず、橋の下や民家の軒下に野宿する人が絶えなかった。小津家ではその人たちに炊き出しをしてふるまった」ということです。
 すぐ隣は三井家発祥の地とありました。三井家も元は伊勢・松坂の木綿織を江戸に持って行って商いをしたのが始まりです。また、小津姓は松阪に多くあり、映画監督の小津安二郎の父も松阪出身の商人でした。

 松阪はまだまだ見たい所がありましたが遠くまで帰る方もいますし、歩き疲れてもいましたから松阪駅に向かいました。今回は松阪のお菓子を取り上げます。たまたま書塾の若い友人が伊勢市と松阪市の間にある多気郡出身でこの旅行でのお勧めのお店、名物等を事前に教えてくれていました。それで松阪一の銘菓、柳家奉善の「老伴(おいのとも)」を入手することができました。なんと天正3(1575)年、444年も前に近江で作られたということです。松阪は近江日野の城主、蒲生氏郷(がもううじさと)が天正16年に秀吉の領地替えで移った街です。柳屋は蒲生氏郷の御用菓子司であったため、招かれて近江から来ました。もともと家宝の古い中国の瓦からヒントを得て作られた菓子なので「古瓦」という銘でしたが、豪商三井高敏(三井の初代・高利ではなく、国学者であり茶人)が白楽天の詩集白香山のある句から「老伴」の2文字を選び、「永遠につきあえるお菓子」という意味で名付けたそうです。
 もなかの文字は「延年」と書かれ不老長寿の意味です。もなかの皮に羊羹が流され表面は糖蜜でコーティングされています。もなかの皮がさくさくとして、それほど甘くない羊羹とマッチしています。写真は2つの「老伴」を裏と表にして並べました。
 私は40年来、全国の銘菓のしおりをファイルしています。手持ちの本『城下町のお菓子』に取り上げられているかなと開いて見たら、松阪はなかったのですが何と「柳家奉善」のしおり、しかも今回と全く同じものが挟んでありました。「娘が2002.10.4 実地調査、生菓子150円×4」と私のメモ書きが添えてあり、ビックリです。全く記憶にありません。老舗の銘菓でなく生菓子を買ってくるところが彼女らしいです。

 大嘗祭は今月14日深夜に行われました。私たちは神宮会館に泊まっていてテレビすら付けなかったので翌日帰宅してから気付いたのですが、陛下は神宮の方角を向いて祭祀を行なっていたのですね。その後、即位の礼や大嘗祭が無事終了したことを神宮に報告される「親謁の儀」が22日(外宮)と23日(内宮)に行われました。26日は奈良に宿泊されて、昨日27日は橿原市の神武天皇陵、京都市の孝明天皇陵(泉涌寺)でも「親謁の儀」をされ、京都大宮御所にお泊まりになられ今日28日は明治天皇陵(桃山御陵)にご報告されました。
 先ほど、河原町荒神口にある荒神さんにお火焚き祭のお参りに行こうと河原町通りを歩いて、丸太町の交差点まで行ったところ、人が集まっていて多くの警官が立っていました。「両陛下が通られるのですか?」「12時にお通りになります」とのこと。京都御所は目と鼻の先です。「ご昼食とご休憩をされます」訊いてもいないのに答えてくれました。あと15分なので待つことにしました。12時直前に係員が日の丸の小旗を配り始め「振ってください」。その場を仕切っているらしいおじさんが「ゆっくり通られます。焦らないで」と言いながら行ったり来たりしていました。両陛下のお車はほぼぴったりの時刻に通られました。一瞬のことでほとんどお顔は見えませんでした。

【参考文献

  • 本居宣長記念館しおり
  • 旧小津清左衛門家しおり
  • 創業天正3年、創りつづけて430年「柳屋の銘菓」

【参考サイト

(2019.11.28 高25回 堀川佐江子記)