第40回:御火焚祭とお火焚饅頭

 11月になると、和菓子屋さんの店頭でお火焚饅頭を見かけるようになります。それは紅白饅頭で上に意味不明の焼き印が捺されています。神社の秋祭りの行事に関係するのかなと思うだけで買ったことはありませんでした。
 5年前、奇妙なご縁で知り合った方が、高野山の奥の院からさらにバスで1時間奥に入った立里(たてり)荒神さんに毎月お参りに行っていると話してくれました。何でも霊験あらたかで、元祇園の芸妓さんだったその方は月参りをするようになって10年。健康で、悪いこともおこらず順調な人生を送っていると言っていました。私は子どもの頃から両親に連れられて、浜松市舞阪町にある弘法様によくお参りに行っていましたので、高野山にも何度か行って宿坊に泊まったこともあります。しかし、立里荒神というのは初耳でした。それで、興味を持ち早起きして、大阪難波から南海電車に乗って高野山に行き、1日2便しかないバスで1時間、立里荒神にお参りするようになりました。
 荒神さんとは火の神、竈の神様です。立里荒神は弘法大師が高野山を開く際に、伽藍繁盛密教守護のため板に三宝荒神を描いて古荒神の地に祀ることで、無事に伽藍の建立ができたそうです。それでお大師さんは入定するまで、月参りを欠かさなかったということを舞阪町の弘法様の先生から聞きました。

 ところで、京都の河原町通りには荒神口という地名があり、バス停もあります。河原町通りを丸太町通りから北に歩いて5分ほど行ったところが荒神口で、そこから西へ御所の方に行くとすぐ清荒神護浄院があります。つまり、御所の東南の位置にあるお寺です。ここは天台宗の寺院ですが、本尊は三宝荒神で通称「清荒神」と言われており神仏習合のよい例です。行きやすいところなので行ってみました。するとその日はちょうど11月28日で御火焚祭の日でした。お参りしたら「お下がりどうぞ」と白い紙袋を渡され、びっくりしました。初参りでこんなにしてもらっていいのだろうか、ともう一度祭壇に戻り、お賽銭を弾んで来ました。帰りのバスの中でそっと中身を覗いてみたら、紅白のお火焚饅頭にみかんが2つ、それとおこしが入っていました。不思議な取り合わせだと思いました。

 京都に来て初めて聞いた言葉、「御火焚」は宮中の庭火の系譜をひきながら、種々の信仰を習合しつつ江戸時代から今日まで続いている京都特有の火まつりだそうです。時期からして新嘗祭と関わりがあるのかなとうすうす考えていましたが、「新嘗祭」は皇室が中心となって行われる収穫祭で、官符を受けた大社で行われる御火焚は「新嘗祭」といい、そうでない小社で行われるものが「御火焚」と称されていたということです。

 旧暦霜月に社前で火を焚いて、祝詞や神楽を奏し、新穀と御神酒を供えて、稲穂を育てていただいた太陽と大地に感謝し、また来る年の豊作を祈って行う祈祷行事です。その時、願い事を書いた護摩木(火焚串)を焚いて悪霊を追い祓い、家内安全・無病息災・商売繁盛・火難除けを神に祈ります。御火焚は神社仏閣のみならず、各町内でも行われ、みかんやお火焚饅頭などを供えて、それらを子どもたちに分け与えるのが古くからの慣習とされて来たそうです。

 御所の南にある亀屋廣永さんで伺った話ですと、建築関係、火を扱う染め物屋さんから注文が入り、商家では紅白のお火焚饅頭を職人さんやお得意先に配るとのことです。家によって、日が違い、毎年この日と決めているのだそうです。私が行った日はお火焚き饅頭は売り切れていて「ご予約承ります」と貼り紙がしてありました。

 11月23日は戦後、勤労感謝の日と呼称が変わりましたが、元々「新嘗祭」の日で皇室の宮中祭祀の最重要行事です。天皇陛下が皇居の神嘉殿(しんかでん)において新穀を天照大御神はじめ神々にお供えになり、神恩を感謝された後、陛下自身もお召し上がりになる祭典です。新嘗祭には全国各都道府県より供された新穀に、天皇陛下自らご栽培になった新穀も併せて神前に捧げられます。今上天皇の御即位10周年のときだったと記憶していますが、京都高島屋で記念の展覧会がありましたので見に行きました。新嘗祭は「夕(よい)の儀」と「暁の儀」があり、23日夕刻から翌明け方まで、陛下の祭祀は続きます。その間皇后様は、大きな日本列島の地図上に、各都道府県から供された新穀の粳米と糯米の品種を毛筆で書かれながら、お一人静かに過ごされるそうです。会場にはその大きな日本地図が展示されていました。私はため息が出るような美しい文字に見とれてしまいました。

 今日は11月28日、5年前に初めて行った清荒神の御火焚祭に行って来ました。山伏が8人ほど法螺貝を吹きながら先導し、保育園の園児達が稚児行列をしてお寺の門を出て行きました。地域を廻り30分ほどで戻ると、いよいよ御火焚祭、大護摩供法要の始まりです。山伏の一人が結界を決めて浄めるのか東西南北と鬼門、そして天に向かって矢を放ちました。さらに別の山伏が短剣で空を切り、邪悪なものを祓っているように見えました。住職が願文を読み上げると用意された柴の下の方に点火、もくもくと白煙が立ちこめ、あたりが見えなくなるほどでした。続いて紫の衣装をつけた修験僧の導師がご祈祷のあと、護摩木を投げ入れ、山伏の方々も次々と放り込むので、火は勢いを増して燃え上がります。それは見事な光景でした。火の暖かさがありがたいと思えるほどでした。白い煙で悪霊を追い払い、焼つくす火ですべてを浄化するということが素直に理解できました。さっきまでの自分と変わったような錯覚を覚えたのが不思議です。最後に住職が「護摩とはホーマというサンスクリット語から来ており焚く、焼く、消滅の意味です。きょうは悪いものが出て浄化されたと思います。すがすがしい気持ちで新年をお迎え下さい。」と挨拶されました。

 終了後、ありがたいことに紫の衣の導師が「加持をしますので、ご希望の方はどうぞ」と言われるので、列につき、わたしも頭を下げ加持をして貰いました。「南無大聖不動明王」と唱えながら写真に見える剣を私の頭に下ろす仕草をして下さいました。この方は清水瀧泉さんという吉野の修験僧で阿闍梨さんだそうです。厳しい修行をされて来られたに違いないのに穏やかなお顔をしていました。

 冒頭のお火焚饅頭は仙太郎のもので、新穀の小豆で作った小判型のこし餡と粒あんのお饅頭です。くっきりとした焼き印はお玉と呼ばれる火焔紋、つまり火の象形文字なのだそうです。仙太郎は着色料を使わないので、紅白は小豆の汁で染めたものと、小麦粉の生成りです。2枚目の写真は今日のお下がりで、紅白饅頭は堀川通りの鳴海餅本店製です。小麦粉生地の蒸し饅頭、どちらもこし餡でした。他にこれも新穀で作ったおこし、それとみかんが御火焚祭のお供えです。いずれも農作物に感謝していただきます。おこしは三角形で、火を表しているそうです。火をおこす、と言う意味かもしれません。みかんは串に刺して、御火焚の残り火に入れ、焼みかんにして食べると風邪をひかないといわれるそうで、この取り合わせがお参りのときにお下がりとして渡される紙袋の中身です。

 修験僧の加持を受けて、煩悩の消滅ができたと喜びたいです。しかしながら、昨年はせっかく11月28日に出かけたのに、すべて終わっていてお参りしてもお下がりはありませんでした。今年は18日、上御霊神社の御火焚祭にも行って、祝詞・神楽等一連の神事に参加して、御焚き上げの時は大祓詞(おおはらへのことば)を唱和したのですがお下がりは一瞬でなくなり、受け取ることができずがっかりしました。今日はやっとお下がりの一式を頂戴してうれしく思いました。私はまだまだ煩悩の消滅とは程遠い存在です。

【参考文献】

  • 八木透『京のまつりと祈り--みやこの四季をめぐる民俗』昭和堂、2015
  • 岩上力『京のあたり前』光琳堂出版、1994
  • 直中護「おしたけさん」(お火焚)仙太郎しおり、1991

【参考サイト】

(2016.11.28 高25回 堀川佐江子記)