このホームページを通して会員相互の交流が一層深まり、活動の場が広がることを願います。
石川九楊書塾の友人、瀧本佳代さんが一昨年末に退塾し、昨年12月初旬に個展をしました。その会場が左京区北白川の梅棹忠夫旧邸「ロンドクレアント」でして、案内ハガキの地図を見るとすぐ近くに「駒井家住宅」がありました。「駒井家住宅―駒井卓・静江記念館」とは1927(昭和2)年、ヴォーリズ建築事務所の設計で京都市左京区、京都大学からほど近い場所にある閑静な住宅地に建てられた洋館です。20 年くらい前に新聞記事で、ここを会場にしてピアノの演奏会が開かれるというのを読んだことがありました。昔の洋館が好きな私は、素敵な洋館を公開しているなら是非行ってみたいと思いながら年月が経っていました。
もう一つ資金調達のための重要な仕事が建築設計でした。1908(明治41)年、建築の仕事を始め、建築事務所「ヴォーリズ合名会社」を興し、1920(大正9)年には「ヴォーリズ建築事務所」と名を変えながら病院・学校・教会・個人住宅等を設計しました。建築設計は学生時代に独学で学んでおり、アメリカで主流だったコロニアル様式、スパニッシュ様式を取り入れた美しい建物ばかりです。私が最初にヴォーリズを知ったのは関西学院大学です。神戸女学院大学は以前、ヴォーリズ研究の第一人者、山形政昭教授の案内で見学させてもらうという幸運に恵まれたことがあります。他に同志社大学・アーモスト館や、日本聖公会京都復活教会、また神戸ユニオン教会は現在、神戸の有名なベーカリー「フロインドリーブ」になっています。京都四条大橋西詰にある中華料理店「東華菜館」、大丸百貨店・心斎橋店、京都店もそうで、知らないうちにヴォーリズの設計した建物にいくつも入っていたことに気がつきました。ヴォーリズ建築事務所が手がけた建物は1600棟にものぼるそうです。ヴォーリズの夫人が一柳(ひとつやなぎ)満喜子という方で、駒井静江さんと神戸女学院の同窓生だった関係から駒井家の設計を依頼したのではないかと言われています。そして駒井夫妻は熱心なクリスチャンでした。
駒井家住宅を見学して思ったのは、決して贅を凝らした洋館などではなく、生活者が暮らしやすい工夫をしているという事です。和服で過ごす夫人のために1階に和室があり、2階へ行くすてきな螺旋階段もゆるやかな段差になっていました。また、1階の勝手口の隣にある女中部屋が明るい南向きの部屋になっており、これは駒井夫妻が女中を大切にしていた証としか思えません。
ここを見た時、北区にあった連れ合いの恩師・羽田明先生のお宅が同じく昭和初期に建てられた洋館だったことを思い出しました。毎年ご挨拶に伺っており、奥様が玄関から居間に案内してくださる時、勝手口の横にある部屋を「女中部屋でした。」とおっしゃったのをよく覚えています。当時の洋館は普通に女中部屋があったのでしょう。羽田邸は駒井家住宅の倍の広さがあり、ご子息もいましたが、ご長男亡きあと、人手に渡り建物は壊されて現在は7軒の家が建っているそうです。惜しい事です。駒井家は日本ナショナルトラストに寄贈した事で後世に残る事となり、本当によかったと思います。
ヴォーリズがクリスチャンとして手がけた他の仕事は1918(大正7)年、日本初の私設結核療養所「近江療養院(近江サナトリウム)」を設立した事で、現ヴォーリズ記念病院として続いています。また満喜子夫人とともに近江兄弟社学園を作り、教育にも貢献しました。1941(昭和16)年に日本に帰化してからは一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗りました。「米来留」とは「米国より来たりて留まる」という決意を表しています。
浜松で結核患者を救う仕事から病院、学校を創設した長谷川保氏(1903~1994)については第88回「リオで考えた日系移民と浜松の聖隷病院」に書きましたが、彼も敬虔なクリスチャンでした。二人とも自分の資産というものを一切持たず、ただ人々のために尽くす生涯だったことが共通しています。
駒井家住宅を見学した後、ギャラリー&カフェ「ロンドクレアント」に瀧本佳代さんの書の個展「湖の響umi no oto Kayo書道展」を見に行きました。素敵な空間に彼女の個性あふれる書がとてもよかったです。彼女は拙稿第87回に登場しています。ロンドクレアントという名前はエスぺラント語で、ロンドは集まり、サークル。クレアントは創造者、つくり手、クリエーターといった意味だそうです。
オーナーの梅棹マヤオさんが豆を挽いて淹れてくださったコーヒー、アフリカンブレンドがそれはそれは美味しくて、ミルクを入れないと飲めない私がストレートでお菓子もなしで味わい深くいただきました。
というわけで今回はお菓子の紹介はなしとさせていただきます。
【参考文献】
【参考サイト】
(2026.1.20 高25回 堀川佐江子記)