第87回:リオで考えた日系移民と浜松の聖隷病院

その1.ブラジル移民

 NYに住む娘より2023年末のリオ・デ・ジャネイロとブエノス・アイレス旅行に誘われました。残り少ない人生で南アメリカまで行くことはないと思っていましたから大喜びでOKしました。初めての南半球です。

 12月19日に渡米し、25日夕方の飛行機で約11時間、26日早朝、リオ・デ・ジャネイロに到着しました。出迎えてくださった日本人ガイドの沢田明子さんは車の中で、リオ・デ・ジャネイロとは「1月の川」の意味だと教えてくれました。1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモス達がグワナバラ湾の入り口に到達。大きな川と誤認し、その日にちなみポルトガル語で「1月の川」と命名したそうです。

 ガイドの沢田さんが真っ先に連れて行ってくれたのがリオのシンボルとも言えるコルコバードの丘に立つ巨大なキリスト像です。TVで空中から撮影したキリスト像を見たことがありました。(画像はWikiより拝借しました)ブラジル人のおじさんが運転する車で早朝の空いた道を市街地へ行き、丘の上へ登る登山電車トレム・ド・コルコバードの駅で下車、そこから赤い2両編成のトレムでゴトゴトと20分。進行方向右側に座ると景色がいいと教えられ、リオの街を眺め、森林を通り抜け終点へ。そこから、キリスト像の足元へはさらに126段の階段がありましたが、もちろんエスカレーターとエレベーターを使いました。想像はしていましたが、あまりの巨大さに驚きました。1922年のブラジル独立100周年を記念して計画され、1931年に完成したキリスト像の高さは30m(台座を含めると39.5m)横一文字に広げた両手の幅は28m、足元から見上げると、両手を広げたイエス様に守られるような感覚を覚えました。私事で恐縮ですが、困難な状態にある浜松の兄が救われるような気がして涙が出ました。

 個人旅行でガイドを頼むのは初めてのことでした。沢田さんは素晴らしい方で、細かく私たちの希望を聞いて、丁寧に応えてくださいました。娘が望んだのは数々の教会と王立ポルトガル図書館(画像右)等に行くこと、そして、カリオカ水道橋の上を通る可愛い電車に乗ることでした。1日8時間×2日間、目いっぱい専属ドライバーと共に叶えてくれました。
 車内では貴重なお話を伺うことができました。それは、東京出身のお祖父さんが1957年、移民一世としてリオに来られ、自分は三世。お祖父さんは農場で働き、コロニア(入植地)に住む日系移民の中心的役割を果たしていて、子どもの日本語教育にとても熱心だったそうです。実際、沢田さんの日本語はとても流暢で、最後に日本を訪れたのは20年も前だそうですが完璧でした。

 ここで1908年に始まったブラジル移民のことに触れたいと思います。私はあまり深く考えた事がなく、ブラジルは労働力を必要とし、日本は農村で土地を持たない次男、三男がより良い生活を求めた、という両国の政策が合致して、多くの青年や家族が移民として行ったのだろうと思っていました。
 しかし、沢田さんが「最初は奴隷としてブラジルに来た」と過酷な農業労働者だったことを話したとき、ドキリとしました。
 帰国後いろいろ調べたところ、ブラジルはアフリカから奴隷を連れて来て、サトウキビ、それからコーヒーの栽培をしたそうです。19世紀に各国の奴隷制度廃止の流れで、奴隷を使うわけにいかなくなり、コーヒープランテーションの労働者が不足し、ドイツ、イタリアから移民を入れたが、定着しなかったゆえに日系移民が求められた、というのです。が、奴隷同然の劣悪な環境・処遇だったこと、マラリア等の病気で大変な苦労をしたのでした。

 芥川賞第一回受賞作が石川達三の『蒼氓(そうぼう)』というのは知っていましたが、ブラジル移民のことを扱った小説というのは今回書塾の友人、佳代さんが教えてくださり、初めて知りました。早速読んだところ、貧しい農民が「国立神戸移民収容所」に集められ、移民船に乗り、インド洋、ケープタウンと南海航路を45日かけてサンパウロまで行ったのでした。実際石川達三は移民船に乗り、3ヶ月彼らと生活を共にしたそうです。

 沢田さんの話では、お祖父さんはまずキウイの生産に従事し、その後はレストランの経営をしたと言っていました。その時、突然、昔夫の母が「自分の父はコックとしてペルーへ行き、成功して帰国後、富士宮でレストランを開いた」と言った話を思い出しました。夫の従妹に問い合わせたところ、大正初期のことらしく、大正5(1916)年生まれの伯父はペルー、リマ市生まれの戸籍があり、大正8(1919)年に富士宮市へ入籍とあるそうです。その後、夫の母が生まれています。なぜペルーに行ったのかを一番知りたかったのですが、夫も従妹も親から話を聞いていないようでした。日本人の移民の歴史を調べたら、まずハワイ、それから北米、そこで排斥運動が起き、その後ペルー、ブラジル、アルゼンチンと入植したようです。

 紙幅が尽きましたので、浜松の聖隷病院の話は次回に続きます。

【参考文献

  • 辻 豊治「明治・大正期における草創期のラテンアメリカ文献――横山源之助、永田稠、藤田敏郎のラテンアメリカ移民論――」『京都外国語大学ラテンアメリカ研究所紀要』22号、2022
  • 石川達三『蒼氓』上・下(大活字本シリーズ)埼玉福祉会、2001

【参考サイト

2024.3.12 高25回 堀川佐江子記)