第88回:リオで考えた日系移民と浜松の聖隷病院

その2. 聖隷病院とコーヒー

 第87回:リオで考えた日系移民と浜松の聖隷病院、その1.ブラジル移民の続きです。

 話は一気に変わりますが、浜松の人で知らない人はいない、聖隷病院創立者の長谷川保(1903~94)という人がいます(画像は静岡県社会福祉協議会のHPより拝借)。戦前、敬虔なクリスチャンとして結核患者のお世話を始めて、近隣の人々の迫害を受けながら、三方原に療養施設を作り、次々に福祉事業を拡げて静岡県西部地区で医療福祉の拠点を創り上げた立派な人です。戦後すぐ日本社会党から立候補し衆議院議員となり、生活保護法等、福祉関係の法律の制定に尽力しました。私も上の息子と娘の出産で聖隷浜松病院のお世話になりました。
 以前、長谷川保さんのことに興味を持ち、少し調べたところ、なんと彼は始め、ブラジルへ行って開拓者となり、大コーヒー園主になって一旗上げようと考えたそうなのです。そして東京にある日本力行会海外学校へ入学しました。ここで、私は驚いたのですが、実は孫が2人「りっこう幼稚園」に行っているのです。かつて嫁に「りっこうって何?」と聞いたところ、「以前は力行幼稚園と言って、経営母体は海外へ青年を送り出すための教育をしているらしい。敷地内に日本人学生・留学生の寮がある。」とのことでした。日本力行会は1897(明治30)年に創立された海外移民のための民間の支援機関でした。戦後の1947(昭和22)年に幼稚園も開設しました。

 長谷川保さんは戦前、まさにこの力行会海外学校に行き、ブラジルで開拓者として暮らしていく為の勉強をしたのです。現地で信仰されているキリスト教もここで学び、さらに内村鑑三に出会い、毎週日曜日、聖書研究会に通い、講義を聞き、本を読み、ある日海外学校の礼拝堂で聖霊に満たされ、「お前は外国へ行くのではない。日本にいて日本民族の救いのために働くのだ」という神の声を聞いたというのです。つまり神の啓示を受け、ブラジル行きを取りやめ浜松に戻って来たわけです。「聖隷」というのは「聖なる奴隷」として貧しい困窮した人々のために尽くす、ということです。
 私が尊敬するしらはぎ会の先輩、谷澤耀子さん(高5回)の母上は長谷川保さんに請われ、聖隷草創期に三方原で奉仕された方です。

 沢田さんに力行会と浜松の聖隷病院の話をしたら、とても興味を持たれ、「おばが力行会でしばらく仕事をしていた。私も浜松に住むブラジル人の方々の為に8ヶ月お手伝いした。」と話されたので、本当にびっくりしました。現在、浜松には多くの日系ブラジル人が住んでおり、2009年には東京と名古屋に次ぐ在浜松ブラジル総領事館も開設されました。

 沢田さんにリオで有名な菓子店へ案内してもらいました。創業1894年の Confeitaria Colombo (コロンボ菓子店、通称カフェ・コロンボ)です。いつも混んでいると言われた通り、外まで列になっていました。カフェの天井は高く、床の大理石はイタリアから、6m×3mの8枚の巨大な鏡はベルギーから、ステンドグラスはフランスから輸入されたもので豪華な雰囲気を醸していました。リオはかつてブラジルの首都でした(1822~1960)からコロニア様式のこんなカフェが存在するのでしょう。ショーケースのケーキの数々には目を奪われました。
 おしゃれな店内に座るのは、とても無理でしたので、レジで注文して、隣の簡易スペースでコーヒーとコーヒー味のエクレアを頂きました。本場のブラジルコーヒーは美味しかったです。

 沢田さんに私がお菓子にまつわるエッセイを書いていて、以前京都のポルトガル菓子やカステラのことを書いたこと(拙稿第73回:ポルトガル菓子店「カステラドパウロ」と修道院菓子)を話しました。「ポルトガルは修道院でお菓子が作られたのですね」と言ったところ、「そのための砂糖はブラジルからです。」これにはショックを受けました。ポルトガルの修道院菓子がアフリカから連れて来られた奴隷による過酷な労働の結果とは、そうした視点を全く持っていなかった私でした。
 2日目の終わり、沢田さんと別れる前に「ブラジルのコーヒーを買いたい」と希望したら、ホテルのすぐ近くのスーパーまで一緒に行って、数ある中から選んでくれました。今、自宅で飲んでいますが、私好みの酸味が少なく苦味の強い、まさにブラジルコーヒーで大満足しています。思えば、私にコーヒーの味を教えてくれたのは兄で、大学生になったばかりの頃、兄の下宿で淹れてもらったのが「ブラジル・サントス」でした。サントスはブラジル中からのコーヒーを積み出す港です。それで、私は今でもブラジルコーヒーが好きなのです。

 はるばるリオに行き、ガイドの沢田さんと出会ったおかげで様々なことを考える機会となりました。日系移民のこと、ペルーまで出かけていた夫の祖父のこと、浜松の聖隷病院創立者のこと、お菓子に必須の砂糖のこと、毎日飲んでいるコーヒーのことです。沢田さんにはとても感謝しています。
 日本の皇室はブラジルの日系移民に心を寄せていると常々感じていましたが、過酷な生活を強いられた日本国民を思っての事とよくわかりました。1978年のブラジル移住70周年記念式典には皇太子殿下ご夫妻がご参列され、当時10歳だった沢田さんが美智子さまに花束を贈呈したそうです。

 肝心のブラジルコーヒーは真っ先に兄に飲んで貰いたかったのですが、ブエノス・アイレスからNYに到着した時、訃報が入りました。渡米直前に2度浜松まで会いに行き、「待っててね。」と言って来たのですが、かないませんでした。
 兄は10年前に私の孫のために初凧を揚げてくれたのです。その時の画像は拙稿第12回まつりと「大柏餅」に載せました。さらに5年後も次の孫のために揚げてくれました。やはりブラジルコーヒーは苦いです。

【参考文献

  • 長谷川保『老いと死をみとるーー聖隷ホスピスのあゆみーー』柏樹社、1983

【参考サイト

2024.3.16 高25回 堀川佐江子記)