第65回:幽霊子育て飴

 猛暑の京都です。連日38度超えの公式記録とは、実際にはそれより10度は高いということです。寒暖計好きの私が身をもって体感し、最近は予想がかなりの確率で当たるようになりました。猛暑を凌ぐ方法は幽霊の話です。

 古くからあるお菓子屋さん「みなとや幽霊子育て飴本舗」に行って来ました。ちょうど8月7日から10日まで六道参りの時期でしたので、人出も少なからずありました。東山通りを清水道のバス停で降り、松原通りを西に入ると、昨年拙稿第57回「京の六地蔵巡りと小野篁」で書いた「六道珍皇寺」がありました。ここが、小野篁があの世とこの世を往き来して夜は閻魔大王の補佐をしていたという、井戸のあるお寺かと思いながらお参りは後にして、まず幽霊子育て飴屋さんに向かいました。

 お店には子育て飴一袋500円の一種のみ置いてありました。ご主人がお話しくださったことは「奥様が20代目、500年続くお菓子屋で京都では2番目に古い、一番古いのは今宮神社のあぶり餅『一和』で1000年」です。奥様の母上が他家に嫁いだ後、跡取りの長男が他界した為、姉であるその方が店を引き継ぎ、その娘である奥様が当主ということです。500年続いているということは大変なことです。
 「幽霊子育て飴」の由来はお店のしおりによると、「今は昔、慶長4(1599)年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてありき、しかるにその当時夜な夜な飴を買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。此の児8才にて僧となり修業怠らず成長の後遂に、高名な僧になる。寛文6(1666)年3月15日68才にて遷化し給う。」

 亡くなった母親から赤ん坊が生まれて、死人の母が飴を買いに来て、という話は遠州小夜の中山の「夜泣き石」伝説が有名で、私は子どもの頃聞かされて恐い思いをしたものです。掛川にある子育て飴の「小泉屋」は1751年から続く店とのことで十分驚きですが、500年続いているこちらはもっとびっくりです。話が伝わったのか伺うと「全国に似た話は8つあるが、いわれはわからない」とのことでした。一袋購入し、外に出ると貼り紙に「水木しげるさんのゲゲゲの鬼太郎の元になった飴です」とあったので、又驚いて店に戻りました。なんと、水木しげるが神戸にいた頃(貸本屋の漫画を描いていた極貧時代です)ここへ来て、子育て飴のことを知り、『墓場の鬼太郎』を書いたということでした。鬼太郎はお母さんが亡くなった後、墓場で生まれたのです。それからお店でファイルしている資料も見せて頂きました。水木さんからはずっと1回50袋の注文が続き、亡くなった今も注文があるそうです。

 店には昔の銭函の写真もあり、幽霊となった母が毎晩1文銭を持って飴(当時は水飴)を買いに来たが、7日目は木の葉が銭函に入っていて、おかしいと思って後をつけると鳥辺山(昔、死者を土葬した場所)に消えたとのこと。なぜ6日間1文銭を持って来たかは、三途の川の渡し賃として6文の銭は一緒に埋葬するからだそうです。一瞬、背筋が涼しくなりました。

 帰り道、「六道珍皇寺」に寄り、お参りし、小野篁の像にも手を合わせました。迎えの鐘をつくとお盆で死者が戻って来るという鐘の列には20人くらいの人が並んでいました。浜松は7月にお盆をするので、先月お参りしたところですし、鐘をついて死者の霊はどこに帰ってくるのだろうと考えたら混乱してしまい、鐘をつくのはやめにして、汗をふきながら帰宅しました。
 京都は16日に大文字の送り火で、先祖の霊を送るのです。

 帰宅後いただいた飴は優しい甘さでいくつでも食べられるほどでした。麦芽水飴と砂糖のみで作られています。お店には、鍋に水と飴をいれて煮溶かして冷ますと「冷やし飴」ができると説明書きが置いてありました。作ってみようと思いましたが、鍋を火にかけるのも躊躇する京都の暑さです。だれか作ってくれないかな。

【参考文献

  • みなとや幽霊子育て飴本舗 由来

【参考サイト

(2019.8.13 高25回 堀川佐江子記)