第57回:京の六地蔵巡りと小野篁

 京都には850年の伝統をもつ「六地蔵巡り」という行事があります。8月22、23日に都の主要街道にある6つのお地蔵さん、つまり奈良街道--伏見地蔵(大善寺)、西国街道--鳥羽地蔵(浄禅寺)、丹波・山陰街道--桂地蔵(地蔵寺)、周山街道--常磐地蔵(源光寺)、鞍馬街道--鞍馬口地蔵(上善寺)、そして東海道--山科地蔵(徳林庵)の六体のお地蔵さんを巡拝し、「お幡(はた)」と呼ばれるお札を集めます。6枚まとめて家の入口に吊すと、疫病退散・家内安全・福徳招来の御利益があるとされています。
 私は20年近く前にここ山科に引っ越して来ました。山科地蔵は旧三条通り、つまり江戸・日本橋から京・三条に続く旧東海道にあり、大津宿から京にのぼる旅人や飛脚が一休みした場所です。 8月22、23日はちょうど町内で地蔵盆の行われる時期です。京都の地蔵盆については拙稿「第15回お盆と夏柑糖」で触れました。「六地蔵巡り」を知らなかった私は、山科地蔵のある町内の地蔵盆は夜店も出て、ずいぶんにぎやかなお祭りをするのだなあと思っていました。

 「六地蔵」という地名は、JR奈良線、京阪電車、京都市営地下鉄東西線の駅名にもなっています。六地蔵の名前の発祥は平安時代初期に遡ります。嵯峨・淳和・仁明天皇に仕えた公卿であり、漢学者であった小野篁(たかむら)は、大病にかかって息を引き取り、一度冥土に行きました。そこで、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って、地獄に落ちて苦しむ人々を救済している地蔵菩薩に会います。その地蔵菩薩から「地獄の苦しみと私のことを人々に伝えてほしい」と告げられた篁はそのあと蘇ります。そして、一本の桜の大木から六道にちなんで、六体の地蔵を彫り、木幡(こはた・こわた)の里(現在の六地蔵付近)に収めた、ということです。それは仁寿2(852)年のことと伝えられています。
 平安時代後期になると、地蔵信仰が高まります。深く帰依していた後白河法皇の命を受けた平清盛は、1157(保元2)年に都を病魔や魔物から守るため、西光法師に都の出入り口となる六カ所に六角形のお堂を建てさせました。そして篁の彫った地蔵菩薩をそれぞれのお堂に祀りました。これが「六地蔵巡り」の始まりと言われています。現在、地蔵菩薩は六つの寺院に安置され、地蔵盆の行われる8月22、23日にそれらを巡って無病息災を祈願し、お幡を授かる「六地蔵巡り」が行われます。

 私は8月22日の京都新聞夕刊一面に写真入りで紹介されていた「無病息災祈り六地蔵巡り―京の各寺院で始まる」の記事を読んで、びっくり仰天。20年近くも山科に住んでいて、六地蔵巡りのことを何にも知らなかったのです。それで、翌朝さっそく、台風が近づいていて小雨のぱらつく中を自転車で山科区四ノ宮にある山科地蔵に向かいました。家からすぐのところにある三条通り(旧三条通りの一本南)に観光バスが2台止まっていて、六カ所を巡るツアーをしていました。旧三条通りは狭いので三条通りに停車したのでしょう。

 山科地蔵では普段のひっそりしたお堂の雰囲気と打って変わって、提灯や幕が張り巡らされ、特別な日の雰囲気で参拝者も大勢いました。六角形のお堂はいつも扉が閉まっていますが、この2日間のみお姿を間近で見られました。かなり背丈のある真っ白なお顔のお地蔵さんでした。お参りのあと、お幡を300円で購入しました。山科地蔵のお幡は紺色でした。

 見ていると、皆さん、古いお幡はお寺(徳林庵)の庭に張られた綱に結びつけていました。そして、玄関の横には厨子に入った閻魔大王がご開帳になっていました。ここに閻魔様。なぜか分からなかったのですが、小野篁は奇行も多く伝えられ、昼は朝廷に勤め、夜は冥府の閻魔王宮に通って閻魔様の補佐をしていたとする説話が『今昔物語集』にあるそうです。「六道の辻」からあの世へ通っていた、つまり、あの世とこの世を行き来していたのが東山区の六道珍皇寺内にある井戸だそうです。篁と閻魔大王のつながりも今回初めて知りました。

 また、お堂の東北の場所に人康(さねやす)親王・蝉丸の供養塔が建っていました。人康親王は平安時代初期の仁明天皇の第四皇子です。人康親王は28歳のときに、目を患い御所を追われ山科に隠棲しました。四ノ宮の地名はここに由来します。ちなみに仁明天皇は嵯峨天皇の第二皇子です。
 人康親王は和歌・笙・琵琶の才があり、後に琵琶法師の祖と仰がれました。よく似た境遇の蝉丸と混同されていて、この供養塔は長いこと蝉丸のものとなっていたようですが、近年人康親王の名前も加えられたそうです。お地蔵さんの近くに宮内庁の管理する親王の墓所もあります。

 今回のお菓子ですが、山科地蔵にお供えしているのは紅白の鏡餅でした。山科地蔵のすぐ近く、京阪四ノ宮駅前の亀屋さんで伺ったところによると、お地蔵さんのお供えは紅白の鏡餅で、お菓子はお供えしない、とのことでした。また地域の地蔵盆の時は「おけそくさん」という紅白の餅という答えでした。おけそくさんと言うのは「お華束さん」「お華足さん」と書き、仏教用語でしょうか。京都の方はお菓子屋さんで買う小さな白餅をそう呼びます。うちのマンションは最初から地蔵盆の代わりに夏祭りをしているので、お供えの「おけそくさん」は知りませんでした。地域によって、白餅だけのところ、お餅はお供えしないところもあるそうです。

 ところで、小野篁で思い出すのが高校の古典の授業です。以前拙稿第16回小倉百人一首と小倉餡にも登場した国語の榎本良治先生が、「書で有名な三筆と三跡は誰か?」と質問されました。今でこそ書を多少学んでいますので、答えられますが、15歳の時はさっぱりでした。まず、三筆の空海・嵯峨天皇・橘逸勢と来て、三跡は藤原行成・藤原佐理。「後一人は?」誰も分からないので「小野」までヒントを出してくれました。「小町」と答えた男子がいましたが、「ちがうなあ」。もちろん「妹子」も出ましたが違いました。そのあと、運悪く私が当たってしまい、苦しまぎれにたまたま直前に知った「篁」と答えたのです。先生は「惜しいな」と言われて「道風」と正解を教えてくれました。

 たまたま知ったというのは、宇治拾遺物語に面白い話があったのです。うろ覚えですが天皇と小野篁が通りかかったところに「子子子子子子子子子子子子」と書かれた立て札があり、「これが読めるか?」と問われた篁が「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と即答し、天皇はよろこばれたという話です。なんと賢い人かと感心しました。今改めて調べたら、その天皇は嵯峨天皇でした。
 余談ですが、上の息子の友人に小野さんという方がいます。なんと小野氏の末裔ということです。京都にいると、ときどきこういう経験をします。

 山科地蔵でいただいた紺色のお幡が手元にありますが、六地蔵巡りをして6枚集めないと、御利益は6分の1はおろか、ゼロかもしれません。

【参考文献

  • 八木透『京のまつりと祈り』昭和堂 2015
  • 槇野修著・山折哲雄監修『京都の寺社505を歩く』PHP研究所 2007
  • 山村純也「京都ツウのススメーー第124回 京の六地蔵巡り」『K PRESS』京阪電車 2018.8
  • 「京の六地蔵めぐり」六地蔵会 2009
  • 「無病息災祈り六地蔵巡り」京都新聞夕刊 2018.8

(2018.8.29 高25回 堀川佐江子記)