恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載㉑

-『野ざらし紀行』考21.帰庵―いまだ虱をとりつくさず 折々の記『家持の春三月の歌』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

芳川沿いの桜

 ごきげんよう、皆様。
 桜満開の季節を迎えましたが、「冷たい夜の雨に耐え忍んで咲き誇っていてくれるように・・・。」と願いながら、毎日、近くの芳川沿いの桜を見に行く今日この頃でございます。在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば・・・」の歌の心が、いまさらながら身に染みて感じられます。皆様は、如何お過ごしでございましょうか?

 さて、前回の「名護屋の杜国―はねぐも蝶」の項、芭蕉の土地の俳人たちとの交流の旅、そして別れの句、松平先生の御解説で、一層味わい深く、理解できました。
 『続・メモリアル下田』は、興味深いお話満載で、楽しんで拝読させて頂きました。下田、石廊崎などの風景とゆかりの人々のお話。また、一番面白く読ませていただいたのは、「旧制中学の遠泳」で先生も泳ぎが苦手だったとのこと。私たちも北高一年の夏、浜名湖で旧制中学のなごりの水泳訓練で古式泳法を習い、最後の日には、やはり遠泳がありました。私は、50メートルくらい泳いだところで、一息つこうとして、足を底につけると届かず、慌ててバタバタして溺れていたら、舟で伴走していた高崎先生が「つかまれ!」と言って竿を出してくれ、助けられた思い出があり、松平先生が急に身近に感じられて嬉しくなりました。

 さて、大変、お名残り惜しいのですが、今回で「松平先生の連載」が最終回となりますので、今回の連載㉑の簡単な感想を駄文でございますが、つづけて掲載させていただきます。

 「帰庵―いまだ蚤をとりつくさず」・・・『野ざらし紀行』の旅の前々年の暮れに芭蕉庵が大火のため、焼失したとのお話。〈野ざらしを心に〉江戸を発った芭蕉が、ようやく深川の芭蕉庵に戻り、〈いまだ蚤をとりつくさず〉というのは、旅の日々への懐かしさに浸っていたからだろうという先生の御解説に改めて読み直してみるとなるほどと頷きました。

 また最後のほうの『幻住庵の記』について、一言述べさせて頂きます。
 私は、松平先生の連載を始めさせて頂くまで、恥ずかしながら、芭蕉や俳句の知識が全くなく、上手く御紹介できるか心配でした。そのため、思い巡らしていると、確か当家の歴史を書いた一族の本の中に「芭蕉の手紙」のことが記されていたことを思い出し、紐解いてみました。そうしたら、やはり、袋井の遠州の本家が「芭蕉の手紙(真筆)」を所蔵していて、その道の権威者の方々に研究を依頼し「芭蕉の真筆」と認定され、昭和29年2月、東京大学古典文学会の例会で新資料として発表されたこと、また同年4月には東京教育大学国語国文学会の研究誌「国語」に『如行宛芭蕉の書簡について』の詳細な研究が発表されたと書かれておりました。さらに昭和34年10月岩波書店発行の日本古典文学大系中の一冊『芭蕉文集』中の書簡真蹟の部にこの手紙が収められ、昭和36年2月東京大学国語国文学会の研究誌「国語と国文学」2月号に『新資料の松尾芭蕉自筆書簡(元禄3年卯月十日付、近藤如行宛)に就いて』と題した研究が発表されたことが記載されておりました。(※出典『遠州幡鎌氏とその一族』幡鎌芳三郎・塚本五郎共著、昭和43年2月発行)
 そのため、松平先生のところに、その「芭蕉の手紙」についての部分をコピーしてお持ち致しましたら、先生は「そうだったのですか!幻住庵を訪れる前に知っていれば・・・。」と仰ってくださいましたが、私はその時まで幻住庵さえ知らず、慌てて調べてみて、大変勉強になりました。高校時代は、私は松平先生の授業を受けておりませんでしたが、素晴らしい御縁を頂きましたことに、改めて感謝いたしております。
 連載は今回で最終回となりますが、松平先生、末永くお元気で、今後とも宜しく御指導お願い申し上げます。

2025年4月6日 幡鎌さち江 記

『野ざらし紀行』考 松平和久 二十一 帰庵 ― いまだ虱をとりつくさず

甲斐の山中に立ちよりて
   行く駒の麦に慰むやどり哉
卯月の末、庵に帰りて、旅のつかれをはらすほどに、
   夏衣いまだ虱をとりつくさず

 『野ざらし紀行』の旅の前々年・天和二(一六八二)年の暮、江戸駒込大円寺を火元とする大火のため芭蕉庵は類焼。翌年五月頃まで、芭蕉は旧知の秋元藩家老高山麋塒(びじ)らの世話で甲斐の谷村(やむら)に滞在する。その間、麋塒・一晶と三吟歌仙を巻き、『夏野画讃』を作る。芭蕉は信濃路から甲州路を取り、甲斐の知己の家に立ち寄ったのだろう。
 『夏野』の画には、笠をかぶり馬に乗る僧形の人が描かれていた。芭蕉は三界流浪の我が身を重ねて《馬ぼくぼく我をゑに見る夏野かな》の句を添える。〈ぼくぼく〉は、とぼとぼと歩む様。芭蕉庵焼失後の句という思い入れがあるせいか、馬の鈍い歩みに任せてゆく旅の僧の姿には、人生を不如意なものとする哀感がにじむ。《行く駒の》の句。〈行く駒〉を山本健吉は「これまで自分と行を共にして来た駒であり、また明日も自分と行を共にする駒」と読む。江戸近くまで来た安堵感が漂い、遠く《馬ぼくぼく》の句に照応する。

 前年の秋八月、〈野ざらしを心に〉江戸を発った芭蕉は、四月末ようやく深川の芭蕉庵に戻る。その気になれば取り尽くせないわけでもあるまいに、〈いまだ虱をとりつくさず〉にいうのは、旅の日々への懐かしさに浸っていたいからだろう。虱を詠んだ句は『奥の細道』の中にもあるし、句ではないが『幻住庵の記』にもある。虱は風狂の思いの喩だろう。そして風狂の思いは旅を終えたはずなのに、いまも芭蕉のうちに渦巻いていた。

折々の記 『家持の春三月の歌』 松平和久

 この三月三日、浜北の万葉の森公園で、万葉集の話をした。三月三日には桃の花の話が相応しい。桃の話となれば、大伴家持の《春の苑(その)紅にほふ桃の下照(したで)る道に出で立つをとめ》である。
 下調べをしていて知ったことだが、家持(やかもち)の生年は養老二年(西暦718)とする説が有力。とすると今年は生誕一三〇〇年目である。これもまた奇遇といえる。そのなごりで、今回は、家持の越中国守時代の天平勝宝二年(西暦750)三月の花の歌について記すこととする。

 万葉集の巻十七、十八、十九、二十の四巻は、家持の歌日記の体裁をもつ。その巻十九の巻頭が<天平勝宝二年三月一日の暮、春の苑の桃李の花を眺矚(ちょうしょく)して作りし二首>。家持の任越中守は天平十八年(西暦746)、二十九才の時。この年は足掛け五年目に当たる。先にあげた《春の苑(その)紅にほふ桃の下照る道に出で立つをとめ》と《わが園の李の花か庭に落(ち)るはだれのいまだ残りたるかも》とがそれである。
 《春の苑》の歌は、明るい歌である。桃の花が咲き誇り、春の光のあふれる中、突然現れた樹下美人。だれもが似たようなイメージを持つ。だが、この歌、三十一音を立て板に水、一気呵勢によむ訳にもいかない。どこで息継ぎをすればよいか。
 わたしは、《春の苑》の全景を《紅にほふ桃の花》に絞り、さらに《下照る道に出で立つをとめ》にズーム・インする、すなわち初句と三句とで切れ、名詞で終わる感嘆文が三つ並ぶものとよんできた。けれども、<春の苑紅にほふ>で切り、<桃の下照る道に>で一息継ぎ、最後に<出で立つをとめ>と言い切る、万葉集に多い五七調の歌だとする考えがある。どちらがよいか。決定的な理由付けは難しかろうが、舌頭千転まではいかずとも、幾度か舌に上(のぼ)す値打ちはありそうである。
 正倉院御物として伝えられている、聖武天皇の七七忌に、光明子が東大寺に献納した鳥毛立女(とりげりつじょ)屛風は、唐代のふくよかな美女の樹下に立つ図柄で、樹下美人図といわれてもいる。この《春の苑》の歌は、当時貴顕の邸宅にはあったであろう樹下美人図の影響から生まれたもので、実景ではあるまいとする説がある。万葉集で桃の花を詠んだ歌は二首、ともに家持の作であり、ほかには<桃の木>を詠んだ歌が一首、密生した柔毛(にこげ)からついた名らしい<桃毛>を詠んだ歌が三首あるが、それらは桃の実、さらには結婚適齢期を迎えた娘をイメージする些(いささ)かセクシャルな感じのものであり、家持の歌との隔たりは大きい。

 さかのぼる天平十九年春、単身赴任中の家持は病に伏し《世の中は数なきものか春花の散りのまがいに死ぬべきおもへば》と嘆く。その頃、家持の下僚に、和漢の文芸に通じた同族の才子大伴池主(いけぬし)がいた。家持と池主との歌文の贈答はすばらしい。
 家持は漢文の長い序をつけて和歌を贈る。病気で何十日も苦しんでいる。神に祈り小康を得たいが、体は疼(うず)き力は入らない。あなたにあいたい。<春朝の春花は馥(かおり)を春苑に流し、春暮の春鶯は声を春林に囀る。この節候に対して琴罇(きんそん)翫(もてあそ)ぶべし。興に乗ずる感ありと雖(いへど)も、策杖の労に耐へず。………春の花今は盛りに匂ふらむ折りてかざさむ手力(たぢから)もがも>。<琴罇>は琴と酒と。<策杖の労に耐へず>は杖を突くことも出来かねる。
 池主は手紙を頂戴した礼を述べ、<紅桃灼々(しゃくしゃく)として戯蝶は花を廻(めぐ)りて舞ひ、翠柳依々(いい)として嬌鶯は葉に隠れて歌ふ>この春の佳節に、琴罇の楽しみを共にすることのできないことを心残りとし、<山峡(やまかい)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ>と返す。池主が家持に送った手紙には、ほかにも<桃花瞼(ほほ)を昭(て)らして以(もっ)て紅を分かち、柳色苔(こけ)を含み緑を競(きそ)ふ>という語句があり、これらの文人趣味・異国趣味の表れとしての紅の桃が《春の苑》の歌に結晶したといえるだろう。

 《わが園の》の歌も厄介である。助詞<か>の用法からいうと、二句の<わが園の李の花か>で切り、<庭に落(ち)る>を<はだれ>の修飾語とするのがよいが、<わが園の李の花か庭に落(ち)る>に係り結びを認め、<はだれのいまだ残りたるかも>で言い収めるとする考えもある。李を詠んだ歌は万葉集にはこの歌だけ。桃と李は中国では並称される景物だから、これも天平の若い感受性から生まれた異国趣味だったろう。
 三月二日、家持は<柳黛(りゅたい)を攀(よ)じて京師(みやこ)を思う歌一首>を詠む。<黛>は眉墨だが、眉の意味にも使う。柳の細長い葉を譬(たと)えて<柳黛>という。これも異国趣味。<春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路し思ほゆ>都大路は柳通りだった。
 この日、家持は<堅香子(かたかご)の花を攀じ折りし歌>も詠む。<もののふの八十をとめらが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花>である。<もののふ>は朝廷に仕える者。多くの氏を概数で<八十(やそ)>とし枕詞とする。<堅香子>はカタクリ。先年、越中の国府のあった伏木の町を訪ねたが、マンホールの蓋にも堅香子の花が描かれていた。これも万葉集の孤例。
 三月三日は国守の館で宴が開かれ、家持は参集した役人らに祝意を込めて三首の歌を詠む。<今日のためと思ひて標(し)めしあしひきの峰(を)の上(へ)の桜かく咲きにけり><奥山の八つ峰(を)の椿つばらかに今日は暮らさねますらをの伴(とも)><漢人(からひと)の舟を浮かべて遊ぶといふ今日そ我が背子(せこ)花かづらせよ>
 家持の詠んだ植物は六十種を越える。家持の弟書持(ふみもち)は、家持の越中赴任後すぐに亡くなるが、その哀傷歌に注して、家持は<この人、性(ひと)となり花草花樹を好愛し>その庭は<花薫(にほ)ふ庭>だったと語る。また父旅人(たびと)は臨終の床で、傍らの資人(つかいびと)に<萩の花咲きてありや>と尋ねたという。大伴家の男たちはフローラへの愛の極めて強い人だったようである。

(2018.3.15)