恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑳

-『野ざらし紀行』考20.名護屋の杜国ーはねもぐ蝶 折々の記『続・メモリアル下田』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 「暑さ寒さも彼岸まで」と昔から申しますが、今年は2月に春のような暖かい日が続いたかと思えば、彼岸を過ぎての突然の雨風の激しさ、余寒の戻りではないかと思う今日この頃でございます。

 さて、前回の「『野ざらし紀行』考 大徳の遷化を知る」を拝読させて頂きましたが、わが身の不勉強さをこの歳になり改めて痛感させられました。まず、題名の「大徳」「遷化」の言葉の意味も分からず、一つ一つ調べて、「大徳→徳の高い僧」「遷化(せんげ)→現世での教化を終えて別の世に還(かえ)ることを意味し、高僧の死のことを示す」など、「ああ、このような意味だったのか!!」と大変、勉強になりました。
 「伊豆の国蛭が小嶋の桑門、・・・」と始まる冒頭の言葉にも、「桑門(そうもん)」でつまずき、調べてみれば「桑門→僧侶、出家のこと」とあり、鎌倉の「円覚寺」の高僧・大(だいてん)和尚が今年1月にお亡くなりになったことを芭蕉は知って、人の世の無常、高僧の死を悼む、一句。

   梅こひて卯の花拝むなみだ哉

 「<梅>に大和尚の清雅な面影を譬(たと)え、矚目の<卯の花>の白さに寄せて大徳への弔意を示した句」との松平先生の御解説に、改めて、なるほどと納得いたしました。

 次に『メモリアル下田』を拝読させて頂きました。
 わが校で先生が最初に担当された卒業生のクラス(※14回)の皆様との心温まる旅行。行く先は、先生が中学・高校時代過ごされた伊豆下田。
 昔、私も旅行したことがある下田、下賀茂温泉。下田の街並みと記憶にある寺の様子がありありと蘇ってまいりました。先生の下田時代の思い出は、戦後生まれの私には、思いもかけぬものでございますが、「ああそういう時代だったんだ」という驚きとともに、時代の移り変わり、そして下田の変わらぬ風景などの描写に引き込まれ、大変興味深く読ませて頂きました。

 それでは、今回はまた、どのような素晴らしいお話をお伺いできるのでしょうか。

2024年3月23日記

 (追記)尚、今回の『メモリアル下田』の中で登場した世話役のS君。おそらく、松平先生の連載を「しらはぎ会HP」に掲載を依頼して下さった14回の大先輩ではないかと推測されます。彼はとてもダンディーで母校愛、郷土愛に溢れた心優しい方でした。しかしながら、彼は昨年11月に突然、御病気で御逝去され、お通夜で先生とお会いいたしました。先生も大変、驚かれた御様子でしたが、今回の「『野ざらし紀行』考―大徳の遷化を知る」の文と重なり、無常、人の世の悲しみを改めて感じました。謹んで、哀悼の意を捧げます。

『野ざらし紀行』考 松平和久 二十 名護屋の杜国 ― はねもぐ蝶

    杜国におくる
  白げしにはねもぐ蝶の形見かな
二たび桐葉子がもとに有りて、今や東(あづま)に下らんとするに、
  牡丹蘂ふかく分け出づる蜂の名残り哉

 三月の下旬に熱田に着いた芭蕉は、半月ほど、熱田の桐葉亭や鳴海の下里知足亭に泊まり、土地の俳人たちと俳諧を楽しみ、名所旧跡を訪ねる。《何とはなしに何やら床し菫草》を白鳥山法持寺でよんだのは三月二十七日。其角宛てに大和尚の死を悼む手紙をしたためたのは四月五日。熱田・鳴海滞在中に俳諧の座をともにした連衆は分かっているが、その中に前年冬、名護屋での『冬の日』五歌仙に芭蕉と一座した連衆の名はない。

 さて、杜国は『冬の日』五歌仙すべてに名を残す名護屋の若き米穀商。『冬の日』の杜国の付句《しばし宗祇の名をつけし水》《しらじらと砕けしは人の骨か何》《寂として椿の花の落つる音》などに見える鋭い感性と自在な表現力に芭蕉は驚き、嘱望したことだろう。芭蕉の熱田滞在を聴き、杜国は訪ねる。その帰るに当り《白げしに》の句を贈ったのではないか。あるいは木曽路を帰る芭蕉が、杜国を訪ねたのかも知れぬ。断腸の離別の句である。杜国はこの年貞享二年八月、不正な商いをした科で、ご領地追放の刑に処せられ、伊良湖岬に近い保美に蟄居する。『笈の小文』の旅で芭蕉が保美の杜国を訪ねたことはよく知られている。
 《牡丹蘂ふかく》の句。旅の俳諧師を長らくもてなしてくれた桐葉への感謝と惜別の情をこめる。花と昆虫とを素材とすることでは、《白げしに》と瓜ふたつである。

白げし

折々の記 『続・メモリアル下田』 松平和久

 先月の続き。教員生活の中で、はじめて担当した卒業生との思いがけない下田への旅の話である。
 二日目は、夕方伊豆急下田駅で合流することにして、二つのグループに分かれる。一つのグループは伊豆下田カントリークラブに行く。狭い下田のどこにゴルフ場があるのか、意外に思っていたが、地図によれば西海岸に近い。青い海を見ながらのゴルフかと思ったが、後で聞くと、駿河湾は見えなかったとか。
 もう一つは二人の女性Tさん、Kさん、それに私。ゴルフはできない。旅館から出る下田行の送迎バスの出発時間が10時。それまでに戻る予定でタクシーで石廊崎に向かう。ゆっくりはできない。片道20分くらい。広い駐車場のある石廊崎オーシャン・パークの売店を抜けて、灯台に向かう。
 途中、道のほとり、一段高いところに句碑がある。これは懐かしい。ホトトギス派の俳人関萍雨のもの。以前見ているが、句の記憶はない。碑の文字は苔が邪魔をしてよみにくい。中七・下五は「波をさまりし石廊崎」らしいが、初五は「秋の航」なのか。この俳人のお孫さんが高校の後輩で『萍雨句集』を頂戴したことがある。家に帰り句集を探したが見つからなかった。

 灯台はいまは無人になっているそうだが、ヴォランティアの人が草刈りをしていた。会釈をして岬の先を目指す。道は舗装で歩きやすい。しかし、岬の西側に付いているので、一望千里の海は美しいと言いたいところだが、東側の魁偉な奇岩の聳え立つ海岸美は見えない。先に行くにつれ下り勾配が激しい。帰りを案じ、石廊権現の屋根の少し覗けるところまでいって踵を返す。ヴォランティア氏に再び会う。その勧めもあり灯台の回りを一回りする。ここは視界全開といえる。伊豆半島は昨年、世界ジオパークに指定されたが、この海岸美は、その名に恥じない。

 いったん旅館に戻り、下田に向かう。送迎バスの乗客はわれわれ三人だけ。運転手のサーヴィスで、ガイドとの待ち合わせ場所〈道の駅〉に行く。〈道の駅〉は下田の旧市街から、下田の湾沿いに東の柿崎に行く途中の間戸ケ浜という海岸にある。昔、道は石垣で隔てられていたとはいえ、波打ち際近くを通っていた。知らないうちに大規模な海岸埋め立てで風景は一変していた。〈道の駅〉だけでなく、魚市場があり、海遊公園がある。間戸ケ浜という名前は、バスの女車掌の唐人お吉哀話で覚えた。伊豆急の電車の通る61年まで、下田から伊東に出るのには船か、バスに揺られるしかなかった。バスの中では女車掌が決まったように唐人お吉の話と、曽我兄弟の富士の裾野の仇討ちの話とをした。町奉行に口説かれ、お吉が恋人の大工鶴松との仲をあきらめ、柿崎の玉泉寺に設けられたアメリカ総領事館にいるハリスを訪ねるとき、間戸ケ浜を通る。〈行こか柿崎、戻るか下田、ここが思案の間戸ケ浜〉。女車掌は《下田節》の一節を必ず挟むのだった。
 昭和21年、中学生になった初めての夏、間戸ケ浜で遠泳が行われた。湾の中には犬走島とみさご島という二つの島がある。大きな犬走島は湾の真ん中にあり、小さなみさご島、通称猿島は浜から五〇〇mくらいだろうか。一年生は猿島を回るコースだった。
 伊豆の教師は泳げない生徒がいるなど考えもしない。東京の西郊から〈戦後疎開〉した私は金槌だった。集合場所に行き、注意事項も聞いたのだろうが、耳に入らない。泳げないと申し出ることすら思い付かない。小舟が幾艘か砂浜に上げてあった。卑怯者と笑わば笑え。身をかがめ、舟の間を縫って逃げた。遠泳を終えて、点呼があったろうが、家に帰ってしまったのか、その記憶はない。昭和22年の学制改革で旧制中学はなくなった。猿島遠泳の行事は、その年限りだった。
 高校の修学旅行は、京都・奈良方面だった。今思えば未熟なダンディズムだろう、受験予定の十人余りの仲間が参加せず、学校に残り自習をすることになった。出発二日目、修学旅行中のバスが奈良に行く途中で田圃に転落したという知らせが入った。その時、担任のT先生は右手を骨折した。同じクラスのO君と見舞いに伺った。先生の家は間戸ケ浜にあった。しばらく休まれてから教壇に戻ったが、板書ができない。その年限りでお止めになり、東京の大学にお勤めになる。後日、東洋文庫にカール・クロウの『ハリス伝』の先生による翻訳が入った。

〈 道の駅〉であったガイドは外岡(とのおか)さんという人だった。三人に一つずつ蜜柑を手渡しながら、自己紹介をする。外岡姓は下田の西、大賀茂に多い。私は昔下田に住んだこと、下田の高校を卒業したことなどを話して、大賀茂の方ですかと尋ねた。予想通りだった。私より七、八つ若い、同じ高校の卒業生で、銀行を定年退職して後、〈ボランティアガイド協会の〉ガイドをしていると穏やかに話す。Tさん、Kさんは奇遇に驚き、喜んでもくれた。間戸ケ浜から柿崎まで私は専ら外岡さんと話していた。
 同じ大学に進んだ一年上の外岡さんのこと、いっしよに文芸部を作った同級生の外岡は北川冬彦の門を叩いていたとか、題は忘れたが〈ゴールデン・バットの香は悲しい〉などという短詩を文芸部誌に載せ、仲間を煙(けむ)に巻いた。二人とも静岡県で高校の教師をしていた。ガイドの外岡さんは二人とは親戚で、二人とも最近亡くなったと告げた。外岡さんの促しで、高校生の時、早稲田のたぶん法科の外岡茂十郎先生の講演を聞いたことを思い出す。野球部長兼務ということだけ頭に残り、講演内容は雲と消えたが、この先生も同窓の大先輩で、同じ大賀茂の出身の一族だという。

 柿崎神社の吉田松陰像を見て、弁天島に行く。松陰が国禁を破り密航を企てようと小船を漕ぎ出したところだが、いまはジオロギーに日が当たり、島の地層の「斜交層理」も名高い。
 ハリスゆかりの玉泉寺を出て、忙しく実り多い午前中の予定は終え、外岡さんと別れ、バスで下田駅に向かう。

(2019.7.7)

石廊崎

柿崎弁天島

吉田松陰と金子重輔の銅像