恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑲

-『野ざらし紀行』考19.大徳の遷化を知る―卯の花拝む 折々の記『メモリアル下田』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。

 新年を迎え、「初日の出」の神々しさに酔いしれたのも束の間のこと、めったに地震のない浜松で突然の震度3位の揺れにビックリして、急いでテレビをつけると能登半島の大地震のニュースの報道。暮れから、友人が能登半島に旅行中で、地震の起きる数時間前に珠洲市からの映像を送ってきたばかりだったので、その安否に一喜一憂。(※後日彼女曰く、多くの人々の善意に救われて、無事帰宅出来たとの由で一安堵!)
 そして更に、2日の午後6時前後の羽田空港での日航機衝突炎上事故の報道。
 2024年の幕開けは、本当に波乱に満ちたもので、あっという間に、1月下旬となり、松平先生の著述集の連載の掲載も遅くなってしまいましたことをお詫び申し上げます。

 さて、前回の「『野ざらし紀行』考 東海道を下る」を拝読し、芭蕉の俳句「山路来て何やらゆかしすみれ草」が、ここで出てきたことに感激いたしました。伏見から大津に向かう逢坂山あたりの山路とのこと。それこそ「なんとはなしに」この句を口ずさん楽しんでいただけでしたので、大変勉強になりました。
 「湖水の眺望 辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて」と続く近江八景の「唐崎夜雨(からさきやう)の変奏と思しく、……朧夜のグラデーションを巧みに表す。」との先生の御説明に芭蕉の素晴らしさを改めて実感いたしました。

 次に『甘草と日の丸』を大変興味深く拝読いたしました。塩山市の重要文化財「旧高野家・甘草屋敷」や「雲峰寺」について全く知りませんでしたので、是非、機会があったら訪れてみたいと思いました。
 また先生のポケットに常時入っている「芍薬甘草湯」、こむら返りや土踏まずの痙攣(けいれん)に効くとのお話に、是非とも、私も常備しなくては……!! 良いお話を伺いました。
 「雲峰寺」の宝物。有名な「風林火山」軍旗の他に、武田家の重宝「日の丸の御旗」があったとのこと。その「日の丸」の一部を切り取って地元から出征する兵士の武運長久を祈り、お守りに送ったということですが、帰ってきた兵士はほとんどいなかったとの老婆の話が現代の世界の情勢と重なり、涙を誘うものがありました。

 それでは、今回はまた、どのような素晴らしいお話をお伺いできるのでしょうか。

2024年1月20日 記

『野ざらし紀行』考 松平和久 十九 大徳の遷化を知る ― 卯の花拝む

 伊豆の国蛭が小嶋の桑門、これも去年(こぞ)の秋より行脚してけるに我が名を聞きて、草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡をしたひ来りければ、
   いざともに穂麦喰はん草枕
 此の僧、予に告げていはく、円覚寺の大顚(だいてん)和尚、今年睦月(むつき)の初め、遷化(せんげ)し給ふ由。まことや夢の心地せらるゝに、先づ道より其角(きかく)が許(もと)へ申し遣はしける
   梅こひて卯の花拝むなみだ哉

 蛭が小嶋は伊豆韮山にあり、頼朝流刑の地として知られる。そこの桑門(そうもん)がだれか、近年は《鳥どもも寝入ってゐるか余呉のうみ》で知られる蕉門の路通とする説があるが、どこからどこまで同道したかははっきりしない。芭蕉は水口から、東海道筋を桑名に行き、前年谷木因とともに訪れた本統寺泊。その後、七里の渡しを熱田に行つたらしい。〈穂麦〉は麦の落穂だろうが、貧しい旅の糧食の喩。どこで詠んだかは決め難い。
 鎌倉の円覚寺の大顚和尚は、其角の禅学の師。〈遷化〉は高僧の死をいう。其角宛ての手紙は熱田でしたため、土芳(とほう)編『蕉翁文集』に残る。「草枕月をかさねて、露命つつがもなく、今ほど帰庵に趣き、尾陽熱田に足を休むる間、ある人われに告げて、円覚寺大顚和尚、ことし睦月の初め、月まだほの暗きほど、梅の匂ひに和(くわ)して遷化したまふよし、こまやかに聞こえはべる。旅といひ、無常といひ、悲しさいふばかりなく、をりふしの便りに任せ、まづ一翰(いっかん)、机右(きゆう)に投ずるのみ。梅恋ひて卯の花拝む涙かなはせを」
 《梅恋ひて》の句。〈梅〉に大顚の清雅な面影を譬え、矚目の〈卯の花〉の白さに寄せて大徳(だいとこ)への弔意を示した句。

鎌倉 円覚寺

折々の記 『メモリアル下田』 松平和久

 思いがけない下田行だった。私の教員生活で、卒業時に担当した最初のクラスの有志が下田方面に旅行するというのである。
 一日目はガイドの案内で町中を歩き、下賀茂の宿に泊まり、二日目はゴルフ組と、観光組に分かれる計画。私が昔下田にいたことを知る世話役のS君とKさんが我が家にきて、ここはという見どころがあったら教えてほしいという。
 私が下田にいたのは昭和二十一年から二十七年までの中学・高校時代であり、ほぼ自宅と学校の間を移動するだけだったから、特に推奨するところは思いつかなかった。
 話をしているうちに行きたくなった。高校の同窓会には折々は出席した。しかし、会場のホテルに直行、宴会果てて一眠り、翌朝は帰路につくだけ。その同窓会も古希を迎えた年を最後になくなった。もう十年以上ご無沙汰である。この機を逸すると行くことはなさそうである。日程を聞くと予定はない。S君やKさんには予定外の同行希望だったかもしれない。だが、心優しいS君とKさんは、先生がご一緒してくれるならみんなも喜びますよ、という。かくて、思いがけない下田行となる。

 伊豆急下田駅に着き、近くの蕎麦屋で昼食。女性ガイドのSさんはS君と同姓、フアースト・ネームも似ている。
 下田は寺の多い町である。下田港は西に駿河湾・遠州灘、東に相模湾が広がり、風待ちの港として重要だった。江戸末から明治初めにあった伊豆近海でのロシアのディアナ号、フランスのニール号の海難事故は知られており、ほかにも船の遭難は数知れない。そこで下田の寺には海難事故の死者の墓や慰霊碑が多い。
 最初に訪ねたのは稲田寺。ここの津波塚は安政の大津波が町を一呑みしたときの犠牲者を弔うもの。私が住んでいた家から200mほど離れているだけだが、そのころ訪ねたことはない。日韓併合以来ほとんど人権を無視されてきた朝鮮人の集落がその門前にあった。敗戦により解放感に喜ぶ彼らに、敗戦で自信喪失に陥った日本人は向き合う術を知らなかったのだろうと思う。寺を去るとき、私はそんなことを話した。
 宝福寺は唐人お吉の墓で知られていたが、今は入り口に大きな坂本竜馬の像が立つ。幕末期この寺で山内容堂と勝海舟の会談があり、その時、海舟の乗っていた舟に竜馬が身を潜めていたとか。幕末史に無知な私はただただ驚いた。竜馬ファンは喜ぶだろうが、いささかあざとい商法ではないかとの思いは捨てられない。
 了仙寺。安政年間、日米和親条約の締結された寺だが、私の高校生の頃には、寺の宝物館はあやしげな性具を見せるところとして有名だった。ちょうど紫と白のニオイバンマツリ、漢字では匂蕃茉莉と書く、その花盛り。境内一面ニオイバンマツリが植えられ、その強い香りがあやしく、若い日に感じた禁忌の寺の蠱惑と畏怖の情がよみがえってきた。
 山門を出ると、通称弥治川の細い流れがある。昔、両岸は青楼紅灯の巷だった。射的屋もあった。いまはペリー・ロードと名を変え、ほとんどは仕舞屋になったがほのかに昔の面影を残す。途中で細い坂道を上ると、日露和親条約の締結の長楽寺。再び弥治川沿いの道に戻り、ナマコ壁の家を見ながら、城山公園の麓をペリー艦隊上陸の碑のある河口まで歩く。このあたりには大きなドックがあり、修理の船が入っていたが、どこに消えたのか。
 私は旧制中学の最後の入学生。伊豆半島の南には当時、中学校は一つしかなかった。学校には出身町村別に生徒の自治的な、しかし閉鎖的な組織があった。下田からの通学生は、矯風会の成員になる。入学早々矯風会から、城山公園の鵜島城址の広場に夕暮に集まるよう呼び出しがかかる。その時分、公園に明りはない。ヒエラルキーを守るための儀式が夕闇の中で行われる。五年生が正面奥に立つ。三年生以下は土の上に正座。四年生の代表が下級生に檄を飛ばす。闇が次第に濃くなる。三年生と二年生の数人が前に出るよう促される。説教についで鉄拳が飛ぶ。仕組まれた人身御供なのかもしれないが、新入生は恐怖に震える。中学生としてのはじめての恐怖体験を、ペリー艦隊上陸の碑の傍らで私は披露した。集団内の暴力、集団の排他性は原罪のようにまといつく。できることは人間集団のもつそうした特性を自覚して、個々人が少しでもそれに荷担しないことだとしか私には言えない。

 夕方旅館の迎えの車で、国道365号線を下賀茂に向かう。町並みを抜けるとトンネルがある。高校時代、中学校巡りのクラス対抗の駅伝があった。365号線沿いに今は下田市に吸収合併された朝日村があり、私は朝日中学から下田中学までの区間を走った。朝曰村にある中学までどのようにして行ったのかも、だれからたすきを受け、だれに渡したのかも記憶にない。距離は4㎞前後だろうが、トンネル入口に着くまでほぼ上り坂、たすきを渡し終えるや、酷いこむら返りで転倒したことを思い出す。
 ゆっくり温泉に入り、夕食懇談。遠い昔の話だが、下田市が季刊の広報紙《リメンバー下田》を数年にわたり、故郷を離れた人に送っていたことがある。私の許にも届き、それにちなみ、〈リメンバー下田〉と題した短いエッセイを書いたことがある。三宅島の噴火で全島民が島を離れたニュースから書き出してあるから、十五年前になる。夕食の前、ハプニングがあった。S君とH君とがリレー式でそれを朗読してくれたのである。書いた記憶は残っていても内容は忘れていた。だれに、いつ渡したのかも思い出せないが、それを持っていてくれたことも、この旅行で読んでくれたこともうれしかった。一方済まなくも思った。
 二日目、ゴルフに無縁の私はKさんとTさんと三人、別のガイド氏の案内で、吉田松陰が渡航のために身を隠した弁天島や最初のアメリカ領事館となった玉泉寺などを訪ねた。この時の不思議な出会いは、改めて書くことにしたい。

(2019.6.10)

稲田寺

宝福寺

了仙寺

ペリーロード