恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑱

-『野ざらし紀行』考18.東海道を下る―命二つの 折々の記『甘草と日の丸』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

ごきげんよう、皆様。

 いつの間にか梅雨明け、大暑も過ぎて、猛暑の日々が続く今日この頃でございます。

 さて、前回の「『野ざらし紀行』考知友を訪ねる」を大変、興味深く拝読致しました。
 芭蕉が京都の富豪・三井秋風を訪ねて詠んだ冒頭の「梅白し昨日や鶴を盗まれし」の俳句に、白梅の美しさと昨日鶴を盗まれたという内容が面白く、どんな関係があるのかと思って読み進めると、さすが松平先生の解説は、「芭蕉は三井秋風の人柄を中国宋代の西湖の孤山に住んで鶴を飼い、梅を愛した風流人・林和靖になぞらえて詠んだ」という興味深い内容で句の背景を高尚かつ余すところなく端的に説明して下さり、大変勉強になりました。
 また、私事でございますが、大学時代に伏見に下宿していたのですが、伏見の名物が桃で、西岸寺も知りませんでした。しかし今改めて考えてみると、西岸寺は親鸞聖人と関係があり、かつ伏見桃山という駅があったことを思い出し、たいへん感慨深いものがありました。

 次に「戦い前かもしれぬ」を拝読し、第二次世界大戦当時の現実の一端を窺い知ることが出来ました。先生は終戦の時は数え年12歳。歌集『黄金の蕨』の歌に触れながら、少年時代を回顧された先生の戦争体験に、戦争を知らない世代である私は改めて衝撃を受けました。さらに「子供の頃、お年玉などのお金を貰うと電車に乗って海軍省に行き献金をした。海軍大臣の名前入りの感謝状をくれる」「ヘイワという言葉を知らなかったように思う」という話にもビックリしました。

 今、世界の様相を眺めてみれば、平和なはずの現代日本にも当てはまるのではないかとの危惧を抱かざるを得ぬことが杞憂であってほしいと私も願います。

 それでは、今回はまた、どのような素晴らしいお話をお伺いできるのでしょうか

2023年7月24日記

『野ざらし紀行』考 松平和久 十八 東海道を下る ― 命二つの

    大津に出づる道、山路を越えて
 山路来て何やらゆかしすみれ草
    湖水の眺望
 辛崎の松は花より朧にて
    水口にて二十年を経て、故人に逢ふ
 命二つの中に生きたる桜かな

 鳴滝・伏見での句は〈梅〉〈花〉〈桃〉と木の花尽し。さらに辛崎・水口が〈花〉〈桜〉である。伏見から大津に出る逢坂山あたりの山路だろうか、そこに慎ましやかな〈すみれ草〉を点じたのは単調に陥るのを避けた工夫だろう。ただし、この句は《何とはなしに何やらゆかし菫草》が初案。尾形仂『野ざらし紀行評釈』を借りる。「これはもと、旅程の上からはもっと先へ行って三月の下旬江戸への帰途に……熱田連衆とともに白鳥山へ詣でた際の吟であった。白鳥山は……日本武尊が白鳥となって舞い降りた所という。「何とはなしに何やらゆかし」とは、……日本武尊への崇敬の情を表出したもの。「菫草」は、日本武尊の神霊の象徴にほかならなかったといっていい」。それを一転した文学的虚構の面白さを味わうことができる。
 《辛崎の》の句。〈花〉は近景、〈松〉は遠景。近江八景の一、唐崎夜雨の変奏と思しく、朧夜の景色だろう。〈にて〉と詠みさして、朧夜のグラデーションを巧みに表わす。
 《命二つの》の〈故人〉は旧友、ここでは伊賀上野の蕉門、服部土芳をさす。〈二十年を経て〉は誇張法。土芳は芭蕉を迎えようと伊賀を出て京に向かう途中で芭蕉に会い、師とともに水口に数泊。当地の俳人らとともに歌仙を巻く。芭蕉の心の弾みが伝わる句。

広重「近江八景・唐崎夜雨」

折々の記 『甘草と日の丸』 松平和久

 師走初めの一泊二日の甲州への旅についての雑感。
 JR塩山駅の前にある、重要文化財旧高野(たかの)家・甘草(かんぞう)屋敷の正面には、この季節、大きな甲州百目の柿簾が下がっていた。
 大きな古民家の魅力はさておき、ここでわたしは萱草(かんぞう)と甘草との違いを初めて知った。萱草はユリ科ワスレグサ属の総称。黄色の花をつけるノカンゾウ・ニッコウキスゲなどが入る。
 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅をした動機のひとつは、前年亡くなった母の墓参だった。伊賀上野の家に帰った芭蕉は、母の死を「北堂の萱草も霜枯れ果てて」と記す。これには先行表現があり、『詩経』衛風の「伯兮(はくけい)」の句を踏まえる。「伯」は妻が夫をよぶ語。「兮」は深く思いをこめる助辞。「夫よ」と訳せばよい。出征兵士の妻の歌だが、わが心に雨が降るように、雨よ降れ、雨よ降れと願っても、お日様はギラギラ照りつける。私の願いは叶わず、胸はつまり頭はいたくなる。「焉(いづ)くにか諼草(かんぞう)を得て、言(われ)は之を背(はい)に樹(う)ゑん(どこかで忘れ草を手に入れ、北のわたしの部屋の庭に植えたい)」。この「諼草」が「萱草」。「背」は「北堂」、家刀自の部屋をいう。
 この印象が強く、長らく甘草と聞いても、それが萱草と別物とは思わなかった。甘草はマメ科の多年草。『ニッポニカ』には「根茎は円柱状で地下に走出枝を多数伸ばし、主根は長く、表面は赤褐色ないし暗褐色、内部は淡黄色で甘い」とある。この根と走出枝を乾燥させて、漢方で甘草とよばれる。
 甘草屋敷では説明員が丁寧に話してくれた。大きな箱に入った乾燥した根と走出枝は一見何の魅力もない。小箱には細かく砕いたものを入れ、見学者の掌に一つまみずつ載せてくれる。確かに甘い。じつは私のポケットには常時、漢方薬《芍薬甘草湯》が入れてある。疲れたとき、寒いとき、しばしば腓(こむら)がえりが起こる、近頃は足の甲や土踏まずが痙攣することもある。《芍薬甘草湯》は手放せない。それなのに、芍薬についても甘草についても調べることはなかった。罰当たりな話だ。
 いま少し『ニッポニカ』の説明を借りる。「・・漢方ではもっとも多く使用される薬物で、疼痛(とうつう)、痙攣、潰瘍を治す作用があるので、腹痛、咽喉痛、咳、胃潰瘍に用いるほか、・・・解毒剤としても用いる。ビール、タバコ、醤油の製造の際、甘味料として加える。日本には成育しないので、生薬(しょうやく)の形だけでなく、水で抽出した甘草エキスも多量に輸入している」。これでは、腓がえりならずとも、毎日お世話になっていることになる。
 甘草のことは、天平時代の奈良大安寺の資材帳にも記されているから、渡来人や遣唐使の招来した貴重品だったことになる。さて江戸時代は本草学の隆盛期であり、三代将軍家光は江戸麻布に幕府の薬園を設ける。そのころこの地に甘草のあることがわかり、高野家は甘草の栽培と幕府への納入を命ぜられ、以来甘草栽培は続き、今はバイオテクノロジーの力を借りて成長促進の研究もされているという。

 甘草屋敷のあとは、塩の山の麓にある臨済宗の向嶽寺や恵林寺などを尋ねたが、それらについては省く。
 恵林寺から狭い道を国道四一一号線(青梅街道)に出て、10㎞ほど、裂石(さけいし)の集落を大菩薩峠への道に曲がると、すぐ左に雲峰寺がある。参道は幅の狭い石段で鬱蒼と茂る杉・檜に覆われて、車で行くと気付きにくい。だが、その先に駐車場があり、通り過ごすことはない。横の茶屋に、雲峰寺をお訪ねの人は声を掛けるよう小さな案内表示が出ている。
 来意を告げる。茶屋の老婆は、住職は不在だが鍵を開けるから少し待つようにいい、火鉢の炭に灰を掛ける。寺には参道とは別に急勾配の狭い道がある。観光客の車は乗入れ禁止だが、老婆が同乗するとすべて御免。本堂の前、エドヒガンの古木の脇に乗りつける。老婆は宝物殿の扉を開け、展示品の説明をした後、帰りに茶を飲んでいくよう言い残し、一人坂を下って行った。
 恵林寺の宝物館にある名高い《風林火山》の軍旗は〈疾如風徐如林侵掠如火不動如山〉を黒地に金字七字二行に書いたものである。雲峰寺には同じ《風林火山》の旗二旒(にりゅう)のほかに、武田家の重宝《日の丸の御旗》一旒、赤地に金字で諏訪の上社下社の祭神の名を記した《諏訪神号旗》二旒、信玄の馬前に立てたという、赤地に黒く割菱文を縦に三つ並べた《馬標し旗》一旒がある。これらは、信玄の死後、家督を継いだ勝頼が、織田・徳川連合軍に破れ、天目山麓で自刃する直前、家臣に託して雲峰寺に奉納したものと伝える。
 話は《日の丸の御旗》である。これは菅田天神社所蔵の《小桜韋威鎧兜大袖付》と並ぶ武田家の重宝なのだが、いまは補修されて〈日の丸〉とは思えない。丸の上部はほぼ五分の一を欠き、下部もわずかに欠く。さらに左下が少しずつ何回かにわたり四角に切り取られ、丸い人の頭が左を向き口を開いたように見える。先の戦争のとき、地元から出征する兵士の武運長久を祈り、先住がお守りに贈ったのだという。日の丸の旗に大勢の人が署名をして出征兵士に贈る風習、千人針を集めるために街頭に立っていた女達の姿を思い出す。大切なものを・・・・と咎める気持はない。老住職が戦地に行く若者にできる精一杯のことだったろう。帰ってきた若者はほとんどいなかったと老婆は言い添えた。
 帰りは甲州街道に沿う脇道を通り、樋口一葉の文学碑のある慈雲寺に寄り、勝沼ICから中央白動車道に入る。朝ホテルでもらった新聞の山梨版に「笹子事故6年」の見出しで、笹子トンネル天井板崩落事故に関する記事が載っていた。奇しくもその日に通ることになった。網の目のように道路は走るが、新しい道路の通るのを喜んでばかりはいられない。保守管理が疎かな道路・橋梁は多いと聞く。運転をしたことのない私だが、ふだんは考えもしないことを旅の終りに考えることになった。

(2018.12.13)

塩山市「旧高野家・甘草屋敷」(重要文化財)

甘草(マメ科の多年草)

萱草(ユリ科ワスレグサ)

恵林寺