恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑰

-『野ざらし紀行』考17.知友を訪ねる―昨日や鶴を 折々の記『戦い前かもしれぬ』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 あっという間に桜の季節から薫風爽やかな皐月の空からも一転して、しとしとと降る入梅というより線状降水帯の豪雨を心配する今日この頃となりました。

 さて、前回の「『野ざらし紀行』考東大寺二月堂」を拝読いたしましたが、奈良の興福寺の薪能と二月堂のお水取りに芭蕉が出かけたとの話にとても親しみを感じ、松平先生の解説に思わず、なるほどと引き込まれました。私事ではございますが、ここ何年か、奈良に「薪能」ではありませんが「能」を観劇に行くことが多く、京都とはまた違った風情の街並みと幽玄な世界に魅了されておりましたので、とても興味深く読ませて頂きました。
 東大寺二月堂のお水取りは、残念ながら私は見たことはありませんが、いろいろとお話に聞いてはおりました。そして、御本尊を安置した須弥壇のまわりに二千面ほど供える「お壇供(だんぐ)」と呼ばれる貴重なお餅の一つを、さる貴人の方から御贈り頂いたことがありました。芭蕉も松平先生もやはり、東大寺二月堂のお水取りを御覧になられたとのお話に、私も是非とも一度は見に行きたいものだと思いました。

 次に「ヤマガラの記」の感想ですが、動物は苦手、植物にも疎(うと)い私が、大変楽しく拝読させて頂きました。
 松平先生御夫妻のお人柄がよく分かる素敵なエピソードが満載です。
 満開のシロバナマンサクの横にある「エゴノキ」…エゴノキと聞いてエゴイズムを私も思い出し、どんな凄い木なのか?……と思ったら、まことに美しい白い鈴のような花をつけるエゴノキとのこと。ヤマガラはエゴノキが大好きで先生のお宅に、つがいのヤマガラが来るようになったとのことでした。ヤマガラという鳥の名前は聞いたことはありましたが、どんな鳥なのか全く、それまで知りませんでした。松平先生の御説明により、ヤマガラの生き生きとした姿かたちや生態を初めて知り、嬉しくなりました。ヤマガラはエゴノキのほかにヒマワリの種子を食べると聞いた心優しい先生は餌箱を枝に掛けてあげ、それを見たOさんがしゃれた小鳥の家を作ってきたくれたとの話。また、先生のお宅の近くには、リスがいると聞いて、またビックリ。ヤマガラやリスの訪れが少なくなったら、今度は大きなネズミの姿発見。工作マニアのOさんは、「ネズミ返し」を作ってくれたとの由。
 松平先生から、こんな楽しい野鳥や植物のお話を伺えましたことに、とても感激致しました。さすが、国語の先生でいらっしゃったので、動植物の描写が素晴らしく、いつもながらの興味深い話の展開に思わず引き込まれていきました。よく生物の故・中村明先生のお宅で、面白い鳥やその他の動物のお話を伺いましたが、北高の恩師の先生方は卒業後も変わらず、いろいろお教え下さり、つくづく素晴らしい先生が多かったのだと改めて実感し、北高生であったことを誇らしく思いました。

 それでは、今回はまた、どのような素晴らしいお話をお伺いできるのでしょうか。

2023年6月12日記

二月堂お水取りの須彌壇御本尊に供える「お壇供」

お水取り名物 行法味噌

『野ざらし紀行』考 松平和久 十七 知友を訪ねる ― 昨日や鶴を

 京にのぼりて、三井秋風(しうふう)が鳴滝の山家(やまが)をとふ。

    梅 林
  梅白し昨日や鶴を盗まれし
  樫の木の花にかまはぬ姿かな
    伏見西岸寺任口(にんこう)上人に逢うて
  我がきぬにふしみの桃の雫せよ

 三井秋風は京都の富豪、談林派の俳諧を嗜(たしな)む。親戚筋の三井総家の三代目高房の『町人考見録』には没落した商人の例に挙げられ、「殊のほかなる不行跡者にて、なかなか商売にかまひ申さず、奢りの余り、後には鳴滝に山荘を構へ、それへ引き籠もり種々の栄耀をきはむ、その時の世話に鳴滝の竜宮と沙汰いたし申し候」とある。芭蕉の訪ねたのは没落以前。
 中国の宋代、杭州に林逋(りんほ)、和靖(わせい)先生と諡(おくりな)された人がいた。性恬淡(てんたん)、学を好み、西湖の孤山に住み、終生娶(めと)らず、梅を愛し、鶴を飼い、世人は梅妻鶴子と称(たた)えた。芭蕉は秋風の清雅の姿を林和靖になぞらえる。しかし、鳴滝山荘に鶴はいない。そこで、〈昨日や鶴を盗まれし〉と興じたのである。〈樫の木の〉も秋風を虚飾のない大人(たいじん)と見ての挨拶句と読める。貞享二年三月二十六日付の谷木因宛の手紙で芭蕉は、秋風と唱和した連句を知らせている。
 任口上人も談林俳諧をたしなむ。秋風編の師西山宗因追悼句集『うちくもり砥(ど)』に任口の句が収められており、秋風と任口とは旧知の間柄。秋風が任口を芭蕉に紹介したのだろう。桃は伏見の名物。伏見を桃花源になぞらえ、八十歳の長寿の西岸寺の大徳が暖かく迎えてくれたことへの謝念をこめた挨拶句だろう。今も伏見には〈桃の雫〉という名酒がある。

伏見の名酒「桃の滴(雫)」

折々の記 『戦いの前かもしれぬ』 松平和久

 今月の四日の朝日歌壇・俳壇欄に、久々湊盈子(くくみなとえいこ)さんの「赤とんぼのうた」というエッセイが載った。
 久々湊さんは、ふたりの「戦争を経験した」歌人の歌集を紹介し「戦後の混乱期に成育した自分にとって、右傾化する一方のこの国の現況はいかんともしがたいが、これらの歌集からも無念極まりない思いがひしひしと感じられる」という。その二冊の歌集は、十鳥(じゅうとり)敏夫さんの『万化』と志垣澄幸さんの『黄金の蕨』。

その後『黄金の蕨』を入手したので、ここでは志垣さんの歌に触れながら、わが軍国少年時代を回顧する。
 久々湊さんがエッセイに引いた志垣さんの歌は次の三首、

◇赤とんぼと聞いても戦時がよみがへる朝顔の紺ひらく夏空
◇もののなき戦後の日々を経てくればこの豊かなる衣食を怖る
◇着弾のたびに崩るる防空壕(がう)の壁そのたびごとに死を思ひゐき

 久々湊さんは「志垣は敗戦のときは、十一歳」という。歌人年鑑によれば、一九三四年三月の生れ。私は一九三三年十月生れだから、ふたりは国民学校六年の時に敗戦を迎えたことになる。私は読んでいて、その主題に心からの共感を覚える。
 久々湊さんは、志垣さんについて「死を間近に経験した歌人の目にうつる、平和に弛緩したこの国の現在。警鐘とも言えるこれらの歌を若い世代にもぜひ読んでもらいたい」という、その言葉にもまた共感する。

 『黄金の蕨』によると、志垣さんは戦中は台湾に住み、戦後まもなく帰国する。私は敗戦のとき、東京の西郊今の武蔵野市に住んでいた。そこは都内ではなく、集団疎開はなかった。志垣さんの方が苦労したろう。数え年十二歳の子供に何が分かるかと言われると、返事に窮するが、子供なりに戦時の少年なればこそのことをいろいろ見、いろいろした。それらの体験は忘れ難い。
 志垣さんの《赤とんぼ》の歌。志垣さんは練習機のことを詠んだと書いているが、私には「見たか銀翼この勇姿/日本男児が精こめて/作って育てたわが愛機/空の守りは引き受けた/来るなら来てみろ赤とんぼ/ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ」が思い出される。いずれにせよ「夕焼け小焼けの赤とんぼ」とは全く違う。子供の記憶は凄い。この年齢になっても軍歌や大君への忠節を誓う歌、銃後の守りの歌などがすぐに出てくる。
 《もののなき》の歌。戦中は統制経済下、乏しいながら食料の配給があった。戦後は多くの都市は焦土と化し、配給制度は機能せず、物価は異常に騰貴し、闇取引の横行で弱い者はお手上げだった。弁当を持ってこられない生徒もあり、弁当を食べようとしたら空になっていたということも学校にはあった。
 《着弾の》の歌。そのころの武蔵野町には、中島飛行機・横河電機などという軍需工場があり、空襲は度々あった。家の前の玉川上水沿いの桜が爆弾を受けて倒れ、水を半ば塞き止めたことも思い出す。B29の大編隊が大地を震わして過ぎると防空壕の壁は崩れた。本所・深川が壊滅した夜、東の空は赤黒く彩られた。探照灯の光は激しく動き、曳光弾が走った。もう見ることができないかもしれないからと、父が壕の外に誘った。

 太平洋戦争が始まったから、戦時になったのではない。日清戦争とはいわないまでも、満州事変が始まった一九三一年以来、常に戦時であった。また、台湾・朝鮮半島・遼東半島・南樺太・千島列島はこの国のものだったし、南の海には広い委任統治領があり、傀儡国家満州国もあった。
 学校では毎月八日の大詔奉戴日に校庭に並び、「宮城遥拝」をし、校長の「拝読」する教育勅語を聞いた。歴代天皇の名も教育勅語もそらんじた。印象の強い歴史上の人物は、元寇の北条時宗や建武中興の後醍醐天皇、楠正成・正行父子ら。品川御殿山の英公使館焼討ちの高杉晋作たち。明治以降では、東郷元帥に乃木大将、広瀬中佐に杉野兵曹長、橘中佐、西住戦車隊長、爆弾三勇士などなのだから、自然に軍国少年になっていたのだろう。
 学校教育の果たした役割もあろうが、新聞とラヂオ(当時の少年は、大本営による情報統制は知らず、地図を広げ、新聞で戦況を確かめ「皇軍」の勝利を信じていた)、文部省唱歌や軍歌、子供向け絵本などの影響が強かったのではないか。
 尊皇攘夷、膺懲支那、鬼畜米英とスローガンは変わっても、明治以降のこの国は武力による国威の発揚を国是とし、子供は軍国少年になっていった。

 少年体験をいますこし書く。私には子供の頃、商店で物を買った記憶がない。お年玉などでお金を貰うと、電車に乗り、海軍省に行き、献金をする。凛々しい若い下士官が応接し、海軍大臣の名前入りの感謝状をくれる。部屋に貼るのが誇らしかった。
 近くの老人について「パーマネントはやめましょう」と住宅地を連呼したことがある。老人には私と似た年齢の孫たちがいたのに、彼らは来なかった。お国のためといわれて、軍国少年は同道したのだろうか。背の高い老人の後で大きな口を開けた。老人は在郷軍人だったのかもしれない。
 『黄金の蕨』に〈イトーロジョウホコーハーモニカニューヒゾーカと習ひしモールス〉とある。私もモ-ルス信号を覚えた記憶がある。この後は〈ホーコクヘトクトーセキ〉と続く。イロハ二ホヘトの符号なのだが、この〈へ〉が子供心にもおかしかった。
 私は〈ヘイワ〉という言葉は知らなかったように思う。
 最後に『黄金の蕨』からもう一首。〈もう長く平和のつづきゐる日本いまが戦前といふこともある〉杞憂であってほしいが、志垣さん同様老いたる私は心配している。

(2018.11.15)

歌集『万化』 十鳥敏夫著

歌集『黄金の蕨』 志垣澄幸著