恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑮

-『野ざらし紀行』考15.故里越年―草鞋はきながら 折々の記『八月九日の文学』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 今日は冬至、今年も年の瀬も押し迫ってまいりました。午前中の激しい雨から一転して、抜けるような青空に午後の陽射しが眩しい浜松となりました。

 さて、前回の「『野ざらし紀行』考熱田寸景」、興味深く拝読させて頂きました。
 竹取の翁を真似て作った歪んだ笠を「規矩(きく)の正しきより、なかなかにおかしき姿」と自賛した芭蕉という松平先生の解説に、俳聖と仰がれた近づき難い雰囲気の芭蕉が、なかなかのユーモアのセンスに富んだ風流人であったことを知り、嬉しくなりました。

また、「海くれて」の句は、暮れ行く海のほのかに白い景色より、さらに白い鴨の声がとても新鮮であることと「十一」の桑名の「しら魚しろき」の照応も見逃せないとの先生の解説に、「ああ、そのように鑑賞するのか」と思わず唸ってしまいました。

 次に「折々の記」の「ある扇子の話」、とても感激いたしました。
 先生が中国旅行の際に、お買いになったという扇子。扇子の表は「浅絳(せんこう)山水」といわれる絵柄で、「浅絳」は薄い赤、近景は松柏の茂る岩山の上に2つの小閣のある風景。扇子の裏面には晩唐の詩人「杜牧」の詩が書かれているとのお話。先生の漢詩の御説明は勿論、高校時代の漢詩の授業を思い起し、感慨深いものがありました。杜牧といえば、無学な私でも「山行」の「遠く寒山に上れば石径斜めなり……霜葉は二月の花よりも紅なり」、「江南春」の「千里鶯啼いて緑紅に映ず……多少の楼台煙雨の中」を懐かしく思い出しますが、この扇子の扇面に書かれた詩は、天子の寵愛を失った宮女の悲しみを歌った詩とのお話に感涙致しました。また、それに付け加えて松平先生の山水画への御造詣や扇面に描く七言絶句の絶妙な配置などの御説明に、感激いたしました。

 それ故、後日、先生とお会いした時、図々しくも「先生のあの扇子、まだお持ちですか?写真を撮らせて下さい」と言ってしまいました。そうしたら、先生は、さすがに今はお持ちではありませんでしたので、代わりに中国でお求めになられた別の古い扇子を私に下さいました。その写真を今回は掲載させて頂きます。これもまた、なかなか味わい深い扇子です。また、先生は、その時、私が大学でフランス語を教えて頂いた先生の御本を下さいました。その本の著者である杉本秀太郎先生(故人)は、フランス文学者で高名なエッセイストであり、お宅は国の重要文化財に指定されている京都の「杉本家住宅」です。なお、同じく「京都暮らしあれこれ」の連載をしている堀川佐江子さんが、連載の第22回に杉本家住宅を訪れたときのお話を詳しく書かれています。ご参照下さいませ。本当に嬉しい御縁が次々と繋がっていきます。

 それでは、今回はまた、どのような素晴らしいお話をお伺いできるのでしょうか。

2022年12月22日 冬至 配

松平先生から頂いた中国の扇子(表面)

松平先生から頂いた中国の扇子(裏面)

松平先生から頂戴した本『まだら文』

『野ざらし紀行』考 松平和久 十五 故里越年 ― 草鞋はきながら

爰(ここ)に草鞋をとき、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ、
  年暮れぬ笠きて草鞋はきながら
 と言ひいひも、山家に年を越して、
  誰が聟ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年

 貞享甲子の年の暮、芭蕉は熱田を立つ。『熱田皺筥物語』には、美濃路を経て伊賀に帰るという芭蕉に、桐葉が《檜笠雪をいのちの舎(やど)り哉》と詠み、芭蕉が《藁一つかね足つゝみ行く》と付けたという話が載る。檜笠をかぶり、藁の束を脚に巻き、凍り付くような雪の美濃路を歩く芭蕉の姿が浮かぶ。
 江戸を出て以来、あそこここで宿り、俳諧仲間と一座したことこそあれ、まさに旅また旅。笠・杖・草鞋、と旅の三つ道具を使い、簡潔にその思いを述べる。
 「山家」は故郷、伊賀上野をさす。年を越して、乙丑となる。この地には婿が年賀の挨拶に嫁の実家に出向くとき、鏡もちを縁起物の歯朶で飾り、届ける風習があったという。餅を負うのは婿ぎみであって、牛ではない。
 さきに芭蕉が伊勢に松葉屋風瀑を訪ねるくだりがあった。その風瀑がこの貞享二年乙丑夏、みずから序を書き刊行した『弌楼賦(いちろうふ)』という俳書がある。それには貞享二年四月二十一日、京の俳諧師伊藤信徳を江戸に迎え、其角・卜尺・李下らと興行した八吟百韻や、信徳・其角・風瀑による三吟歌仙などが載るが、その発句の部、春の巻頭は《誰が聟ぞ》である。野ざらしの旅は同じ貞享二年四月末には江戸で終わるから、江戸に戻った芭蕉から聞いたのかもしれないが、情報の早さには驚く。

折々の記『八月九日の文学』 松平和久

 八月一〇日の朝日新聞に、林京子の「人と文学を語る会」が九日、作家仲間や文芸評論家たちが集まり都内で開かれたという記事があった。林京子は14歳の一九四五年八月九日、長崎で被爆。生涯をかけて原子爆弾の破壊の力の恐ろしさを告発する作品を書き続け、今年二月一九日に86歳で亡くなった。同じ記事のなかには加賀乙彦による「原爆を使った人々への恨みや怒りよりも、死に迫られた人の悲哀と絶望を基調としたのが林文学だ」とする短い紹介もあった。
 近年私は八月が近づくと、以前読んだ原爆体験から生まれた作品を読み返している。青木文庫の峠三吉『原爆詩集』や『原民喜詩集』、小説では大田洋子の『夕凪の街と人と』、原民喜の『夏の花』三部作、井伏鱒二の『黒い雨』などである。
 この夏は林の『長い時間をかけた人間の経験』を読んだ。
二〇〇〇年九月の発行。刊行当時手にしながら書架の隅に捨て置き、気が咎めていたからである。そこで、林京子の「人と文学を語る会」の催しの記事には不思議な縁を感じた。

 『長い時間を・・・・』は林の69歳の時のルポルタージュ風の作品。被爆から五〇年余りが経つ。林は作品には「私」として登場する。その日「私」は学徒動員で、爆心地の松山町から1.4㎞ほど離れた三菱兵器製作所にいた。原子爆弾の爆発は11時02分。工場の木造小舎の下敷きになりながら辛うじて命をとどめる。同学年の三二四人のほとんどが被爆、一部は被爆死。二十代を迎えるころから同級生の訃報は増し、命ある者も身体の不調、死への恐怖の長い時間を体験することになる。

 カナという同じく被爆した同級生がいた。私の家に泊まった夜、おやすみなさいといって襖を閉めると、「閉めますな、おそろしかけん」と本気で怒ったことがあった。毎年八月になると鬱病に罹り、秋になると元気になる。カナの還暦祝いの日、カナは「いつかお遍路ばすうや」と私を誘い、抹香臭いことは嫌だという私を無視して、お遍路の衣装は準備するからと決めてしまう。それが果たされぬままに去年の正月、カナから夫良介の死を知らせる電話がある。初七日だという。「淋しいわね、と慰めると、淋しうはなかよ、あの人は間違いのう天国にいきなるさ、といった」が、一月ほど経ち電話をすると、電話は使われていない。カナの行方は分からず、病んでいるという噂だけが聞こえてくる。

 姿を消したカナの行動に虚しさを覚え、生の意味に迷う「私」はカナとの約束を果たすことで得られるものがあるのではないかと三浦半島の三十三観音霊場巡りを思い立つ。被爆死した十四、五歳のクラスメートたち。卒業後まもなく自死した文学少女のミエ。被爆死した兄の遺骨を焼跡に探し、腎・肝臓を痛め、果ては肺癌で夭折した香子。四、五年前、平和祈念式典のあとの公園の闇の中で被爆者としての半生を「私」に語った名前も知らない一人の娼婦。霊場巡りのきっかけを与えたカナ。「私」はそれら多くの死者・行方不明者の魂を呼び出し、いっしよに歩きながら会話を交わす。そこには、さまざまな被爆者の生活が、病状、周囲との葛藤、社会からの疎外、それによる諦めや不安や空しい安堵が描かれ、価値のある文学的な営みとなっているのだが、加えて原爆の歴史、原爆症、とりわけ「内部被曝」について「長い時間」の後に明らかになりつつあることが具体的な資料に則して精緻に述べられており、私は多くの新しい知見を得ることができた。例えば、

  1. 長崎への原爆投下時、B29から落とされた観測用ゾンデの中にあった、米国原子爆弾司令本部の三人の科学者から、かつての同僚の日本の科学者宛て八月九日付けの、原爆の被害拡大阻止のため日本の降伏に尽力するよう要請する書簡。
  2. 爆撃直後、爆心を中心にして巨大且濃厚な雲の如き瓦斯体が発生して全体を覆った。爆心地にいたものはこの為であったか、一、二分間全く視力を失った。・・二時間後火炎はその極度に達した。局地風が屡々方向を変えた。午後一時頃・・・この瓦斯雲の中から大粒黒色の雨がしばらく落下した」云々という長崎医大の永井隆教授の観察記録。
  3. 昭和二三年八月九日長崎で開かれた原爆被災者追悼式に寄せた軍政府司令官V・E・デルノアの「人類が無限の破壊力を持つ原子力を獲得したことは戦争が真に無益なものなることを知らしめた」云々のメッセージ。

 観音巡りも残り一つとなったとき、「私」は八月六日広島で被爆、その後、被爆者の診察を続けているS医師に会い、J・M・グールド博士らの著述『内部の敵』を見せられる。
 この本は広島長崎への原爆投下に先立ち、四五年七月一六日ニューメキシコ州アラモゴードで行われた爆発実験から生じた低線量放射線が長期間にわたり与える影響を「体内被曝」を中心に統計学的に記したもの。タイトルの『内部の敵』は「体内被曝」を意味する。これについての林の叙述は極めて詳細。
 私の乏しい自然科学の知識では、頻出する学術語の理解も容易ではないが、「長い時間をかけ」て明らかになった客観的なデータに基づき、原子爆弾、核爆発、原発、放射性元素などの問題を考えることの必要を説く林の姿勢には応えたい。

(2017.8.15)