恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑭

-『野ざらし紀行』考14.熱田寸景―海くれて鴨のこゑ 折々の記『ある扇子の話』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 10月に入り、いよいよ秋めいてまいりました。灯火親しむ時節、松平先生の「野ざらし紀行」考、前回の「名護屋へ―木枯らしの身はー」を改めて読み直してみました。木枯らしに吹かれながら、句を詠んだ芭蕉が風狂の徒としての自分を放浪の果てに名古屋にきた仮名草子の主人公「竹斎」になぞらえているという先生の解説に興味をそそられ、世間を気にせず風雅に徹した当時の知識人たちの姿に想いを馳せました。冷たい時雨の降る中から聞こえる犬の哭き声、それが俳諧の将来を思う芭蕉の分身であるという先生の説明にも、思わず「そうだったのか」と拍手を送りました。

「詩人と虚無僧」は、題名に先ず興味を惹かれました。手書きの緑色で刷られた目録を送ってくるという大阪高槻局の消印の古書店の店主の話、詩人でもある店主の散文詩に登場する京都東福寺近くで出会ったという虚無僧氏。
 私も大学時代、東福寺近くに住んでいましたが、すでに当時は虚無僧氏に出会うことは無かったので、とても残念です。古都の街角には尺八姿の虚無僧氏も似合っていますね。
 また、先生の学生時代の「ガリ版と鉄筆」の話、懐かしくお伺い致しました。

 なお、本日の新聞記事に「松平先生の講演会」が開催されることが掲載されていました。
 浜松市天竜区二俣町の「秋野不矩美術館」で、特別展「日本画で綴る源氏物語54帖展」が10月8日~11月27日まで開催されていますが、この特別展に関連して、11月13日に、浜松市天竜壬生ホールで源氏物語を研究されている松平和久先生の講演会が開催されるとのことです。是非とも、拝聴させて頂きに参りたいと思います。

 それでは、今回はまた、どのような素晴らしいお話をお伺いできるのでしょうか。

2022年10月9日記

『野ざらし紀行』考 松平和久 十四 熱田寸景 ― 海くれて鴨のこゑ

   雪見にありきて
  市人よ此の笠うらう雪の傘
   旅人をみる
  馬をさへながむる雪の朝(あした)哉
   海辺に日暮らして
  海くれて鴨のこゑほのかに白し

 各務(かがみ)支考編の『笈日記』所載の《市人よ》の句には「抱月亭」と前書きがある。抱月は名古屋の人。《市人よ》と抱月に呼び掛ける。芭蕉に『渋笠の銘』という文がある。芭蕉は竹取の翁を真似て笠を作る。紙を貼り、渋や漆を塗り、二十日程でようやく歪んだ笠が出来上がる。「規矩(きく)の正しきより、なかなかにおかしき姿」と自賛する。霰や時雨が降ったら、この笠をかぶり旅に出よう、芭蕉は西行や宗祇を思う。そして笠の裏に《よにふるも更に宗祇のやどり哉》と書き付ける。時雨に霰に雪に濡れて旅をし、俳諧をきわめようとした芭蕉の、句商人(あきんど)を装った挨拶句と詠める。
 名古屋の俳諧師らと別れ、芭蕉は熱田に戻る。熱田での芭蕉のことは東藤編『熱田皺筥物語』に詳しい。《馬をさへ》は嘱目の句か。東海道を往来する人馬を余裕を持って見る体(てい)。《木の葉に炭を吹きおこす鉢》を脇句とする三吟が巻かれる。
 《海くれて》の句。ほのかに白いのは暮れ行く海の景色であろうが、それよりは鴨の声である。この共感覚(シネスシージア)的把握、さらに五・五・七の律も新鮮だが、いまひとつ、桑名の海辺で見た白魚の白さと、熱田の鴨の声の白さとの照応も見逃せない。

折々の記『ある扇子の話』 松平和久

 四十年ほど前に中国旅行の際に買った扇子の話である。買った場所は思い出せない。蘇州か、杭州か、あるいは上海か。
 骨はしっかりしているのだが、ごく細かな雲母を撒いた黄色い唐紙(とうし)は、和紙の持つような弾性に欠けていて脆い。扇面の隅などは気づかないうちに欠けていたりする。地紙の折れ目は裂ける。もう何年も夏が近づくとかならず下手な補修をする。ここ数年は一夏にいくども補修をしなければならない。唐紙に似た紙を捜したり、和紙で裂け目をつないだり、面倒なのに、いつまでも捨て難い。

 扇子の表は、墨に藍色と代赭(たいしゃ)色を加えた、浅絳(せんこう)山水といわれる絵柄。「絳」はめったに出会う文字ではないが、紅の意。
「浅絳」は薄い赤。近景は松柏の茂る岩山の上に二つの小閣のある風景。小閣の屋根とそれを越す高い二本の松の枝の広がりとが全体をまとめ上げ、扇面の右奥に向かってつづく林が奥行きを感じさせる。小閣の屋根と木々の幹とに代赭色が使われて色彩上のアクセントを作り出す。

 若い頃、山水画は墨一色を巧みに使うことで様々な色を見る人に想像させるものと思っていた。浦上玉堂の〈東雲篩雪(とううんしせつ)図〉をみたとき、画面にある多くの朱色の点々に驚いた。朱点が晩秋の山の木々の霜枯れた葉を表すのだろうか、降りしきる雪景色に深みを与えていた。〈東雲〉は〈凍雲〉の意とする解説をよんでなるほどと思った記憶もある。それから、しばらく山水画を見て回り、朱墨も青墨もたくさん使われていることを知った。
 この扇子が補修のために見る影もなくなっているのに捨てられない理由の一つはそんな経験があるからだろう。
 扇面の中景には、左から右にかけての大きな山塊と、右隅に険しく切り立つ崖とが配される。大きな山塊はさらに前後二つに分かれ、前山は多くの雨点を打つなど山肌に現実感をもたせる皴法(しゅんぽう)に工夫を凝らし、薄い藍色を掃く。後ろの山は薄墨だけで描き出す。遠景には、没骨(もっこつ)法による薄青い山々がかすかに浮かんでいる。

 小さな扇面だけれども、近・中・遠景の配置と空間の処理の巧みさが大きな広がりを生み、調和を感じさせる。実際には無名の画家の手になる観光客用の安価な土産品なのだが、山水画の長い伝統がそれを後ろから支える。
 扇面の右下隅に「戊午冬小松」と書き、小松とよめる陽刻方印が押されている。戊午(つちのえ・うま)というと、一番近い年は昭和五十三年、西暦だと一九七八年になる。私が求めたのは、その翌年だったらしい。

 扇子の裏面には、晩唐の詩人杜牧(とぼく)の詩が書かれている。杜牧の詩でよく知られているのは「千里鶯啼いて緑紅に映ず水村山廓酒旗の風南朝四百八十寺(はっしんじ)多少の樓台煙雨の中」(江南春)や、「遠く寒山に上れば石径(せっけい)斜めなり白雲生ずる処人家(じんか)有り車を停(とど)めて坐(そぞ)ろに愛す楓林(ふうりん)の晩(くれ)霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり」(山行)だろうか。
 手に入れた当座は、行草の混じった文字だし、草体の文字がさっぱり分からず読むのに往生した。扇面に漢詩を書くとき、その詩体によって書き方にきまりがあることも知らなかった。のちに『全唐詩』で「秋夕」という題であることを知った。いまは、岩波文庫に松浦友久・植木久行編訳の『杜牧詩選』があり、それにも収められている。ここでは、扇面の詩とその書き下し文とを記す。
  紅燭秋光冷畫屏(紅燭の秋光畫屏(がへい)に冷ややかに)
  軽羅小扇撲流蛍(軽羅の小扇流蛍を撲(う)つ)
  天街夜色涼如水(天街の夜色涼しきこと水の如し)
  坐看牽牛織女星(坐(そぞ)ろに看る牽牛織女星)
 この詩、天子の寵愛を失った宮女の悲しみを歌う。第一句の〈紅燭〉は赤い蝋燭。〈畫屏〉は美しい屏風。孤閏をなげく宮女の溜め息が聞こえる。第二句の〈軽羅小扇〉は薄絹を張った小さな扇であり、秋には無用のものとなる。当然宮女の暗喩である。部屋に紛れ込んだ蛍を打つのは宮女の寂しさ。第三句の〈天街〉は『全唐詩』は〈天階〉とする。天子のいる宮殿の階段。宮女にとって夜の宮殿は冷たい。第四句の〈坐看〉はじっと見詰める意。宮女には年に一度も天子の声はかからぬ。

 扇子の骨は両側の太い平骨を含めて十八本。扇子を広げると地紙に山が十六、谷が同じく十六できる。詩は二つの山の間に書かれるのだが、七言絶句の二十八文字をどう按配するかに工夫がある。初めの起句七字は、「紅燭秋/光/冷畫屏」と三字・一字・三字と三行にする。つぎの承句七字は、「軽/羅小扇/撲/流蛍」と切り、末尾の「流蛍」は、さらにつぎの転句の最初の文字「天」と結び付けて三字とする。要するに、七言絶句の二十八字を順次三字と一字に区切り、全体を十四行に収める。次に「杜牧詩」、最後に「仲友」と書家の名が記され、陰刻の方形印の落款が押される。この行分けで視覚的な均整美は見事に表現される。意味を捉らえるのには不便そうだが、約束事が分かっていれば困ることはないはずである。
 この扇子は、山水画を楽しみ、詩と書の融合美を楽しむ贅沢をもたらしてくれる。継ぎはぎだらけもまた善き哉である。いささか暑苦しいわがままな扇子の話である。

(2017.7.12)