恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑬

-『野ざらし紀行』考13.名護屋へ―木枯しの身は 折々の記『詩人と虚無僧』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 6月の早すぎる梅雨明けと連日の猛暑、異常気象による大雨予想など、つい最近では、浜松でも台風が熱帯低気圧に変わった後の大雨により馬込川、安間川などが警戒レベル4の避難勧告が携帯・スマホに鳴り響き、不安な夏の到来です。

 先日、クリエート浜松で、松平先生の「小倉百人一首」の講演会があり、定家の時代をやさしくお話して下さいました。何より2時間の講義をよどみなくお話される松平先生の体力に感心いたしました。お元気で本当に、89歳とは思えないお姿でした。

 さて、前回の「『野ざらし紀行』考十二熱田神宮」のお話で、芭蕉の旅した当時、熱田神宮が荒れ果て荒廃していたとは驚きました。確か、熱田神宮は日本武尊の時代に遡り、草薙神剣を祀ったことに始まるように思いましたが、江戸時代は「社頭大イニ破れ、築地はたふれて草むらにかくる」とは………!! やはり、歴史を紐解いてみると、熱田神社が「神宮号」を賜ったのは明治元年とのことで、熱田神宮と呼ばれるようになったのはその時からだったのであるということを知り、勉強になりました。
 また、『いじめーあるいは無垢の魂』の話を読み、大変、衝撃を受けました。本当に、松平先生の仰るように「いじめの根絶」については悲観的に思えて、悲しくなりました。これは、人間が戦争や争いを、常に地球上の何処かでしてきた歴史にも通じるものであるような気がいたします。

 それでは、今回はまた、どのような素晴らしいお話をお伺いできるのでしょうか。

2022年7月12日 記

『野ざらし紀行』考 松平和久 十三 名護屋へ ― 木枯しの身は

  名護屋に入る道の程、風吟ス。
 狂句木枯しの身は竹斎に似たる哉
 草枕犬も時雨(しぐる)ゝかよるのこゑ

 芭蕉が名古屋に向かうとき、誰が同道したかは分からないが、木因の紹介があったことは確かだろう。名古屋には若い医師や新興の商人に俳諧をたしなむ人は多く、芭蕉を喜び迎えたろうが、芭蕉としては緊張していたに違いない。〈風吟〉は諷吟か。木枯らしに吹かれながら句を詠んだことも重ねているか。
 《狂句木枯しの》の句は、名古屋の連衆への挨拶句。そこで芭蕉は、風狂の徒としての自分を竹斎になぞらえる。竹斎は仮名草子の主人公。京で医師を開業していたが、狂歌が好きで、患者もなく、放浪の末に名古屋にきた藪医者。
 芭蕉七部集の一、『冬の日』はこの時、名古屋の野水・荷兮・重五・杜国らの連衆と巻いた五歌仙と未完六句を収める。その冒頭の《狂句木枯しの》の巻は長い前書を持つ。「笠は長途の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。佗びつくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才士、此の国にたどりし事を、不図(ふと)おもひ出でて申し侍る」この「狂歌の才士」が竹斎である。
 『冬の日』の刊記には、「貞享甲子歳京寺町二条上ル町井筒屋庄兵衛板」とある。芭蕉を迎えよんだ歌仙を、その年のうちにいち早く上梓した名古屋の連衆の心意気は芭蕉をいたく喜ばせたろう。のちに『冬の日』は蕉風の金字塔となる。
 《草枕》の時雨に哭く犬は,俳諧の将来を思う芭蕉の分身なのだろう。

折々の記『詩人と虚無僧』 松平和久

 大阪高槻局の六月十四日消印の、書肆R・Rからの古書通信『Recherche』が届いた。R・RはRechercheを省略したものらしい。フランス語で、探し求めること、追求、探求の意をあらわす。辞書を引くと、〈ouvrage recherché〉は稀覯本(きこうぼん)・珍本とあるから、皆様のお求めの本がありますよ、稀覯本もいかがですか?そんな意味を込めての命名だろうか。
 書肆の開店は一九七二年。私が目録を頂戴するようになってから四半世紀ほど。年に三、四回、目録が来る。この目録の魅力はまずは孔版印刷という、今日ほとんど目にすることのない手書きの目録であること、さらに緑色のインクで刷られていること。最近は稀覯本はカラー写真で載せている。
 私が高校生の頃、文芸部の仲間と鉄筆を持ってはガリ版に向かい、小さな雑誌を作っていた。昭和二〇年代の半ばの話である。新しいガリ版を買う金などない。職員室から鑢(やすり)の目のつぶれかけたガリ版を払い下げしてもらって使うのだから、心地よく文字を刻むことなどできない。鑢の目はすぐに臘で埋まり、鉄筆は謄写版原紙を破る。ガリ版を洗浄する液はあるのだが、なかなか乾かない。大学でも、受講する学生が輪番で教材をガリ版印刷して用意することもあった。昭和三一年の春から教員生活を始めたが、長い間鉄筆とガリ版は教師稼業には必要不可欠な道具だった。『Recherche』はそうした遠い日々の事を思い出させる。

 今回届いた『Recherche』はB6判6枚、№1から№278までたくさんの佳品が並んでいる。№1は《THE LADY WHO LOVED INSECTS》。丁寧な注が付く。〈英文・虫愛(め)ずる姫君〉1929限五五〇・挿画・DRYPOINT4点入り・・・LONDON刊・・・。銅版画はカラー写真で載るが、小さくて絵柄は分からない。いずれにせよ、書誌情報は豊富である。最後の№278は中村隆の『詩集向日葵』。昭47・耳付和紙判、初函背革・美・〈署名入〉飾画シルク・貝原六一サイン入・・・〈初期の湯川書房の稀本の一冊〉とある。この湯川書房は、稀覯本出版でその名を轟かせていたが、数年前に経営者が他界し、惜しむらくは今はない。書肆R・Rの店主は、湯川書房で稀覯本出版の仕事をしながら、好きな古書肆を開いていた。稀覯本出版に携わった人のつくる古書目録がいい加減なはずはない。ゆっくり眺める値打ちがある。年金生活者には蒐書の喜びは容易には味わえない。しかし、見たことのない本の姿を、そして内容を想像することは許される。

書肆R・Rの店主は詩人でもある。『Recherche』にはYというペン・ネームで短詩型の作品が載る。まれに感想を書き送る。
 今回は〈梵論字(ぼろんじ)〉という亡き父を思う散文詩だった。

 〈京都・東福寺近くで虚無僧氏と出会った・近くに虚無僧発祥の僧坊・善慧寺通称明暗寺があるからか・近年見掛けなかったので少なからず驚いた・土地柄托鉢僧・山伏と出会うことはあるが/幼い頃悪餓鬼だった私に父が「あの天蓋を被っている人は悪さをして逃げまわっているのだ」と・それで私は虚無僧氏に出会うと天蓋の下からのぞきこんで「オッチャン悪いことして顔かくしているん?」途端に尺八で頭をゴツン・気絶してコブが残った・父は逝くなったが眼の前に虚無僧氏がいたのである〉

 Yさんは私より十歳若い。多分昭和十八年生まれ。その少年時代の話である。とすると、敗戦直後になろうか、平和の時代にはなったものの、それまで信じてきたものの価値が消え、ひどい食糧難で、社会は不安定な時代だった。お父上の「あの天蓋を被っている人は悪さをして逃げまわっているのだ」という言葉も頷ける。十歳年上の私にはチンドン屋やサーカスのジンタの響きは人さらいと結びついていたのだから。
 Yさんの詩に東福寺の虚無僧のことが詠まれようとは思いもしなかった。不思議な気持ちがした。高槻に住む人で知っているのは、詩人のYさんと教え子のF君の二人だけである。F君については、二〇一四年の四月、西行の故地、河内の弘川寺に桜の季節に案内してもらった話を書いたことがある。弘川寺では西行の墓の前で、F君が袈裟を掛け、尺八で「調子」「阿字」の二曲を吹いた。そのF君が尺八修行をするのが東福寺の塔頭・明暗寺であり、F君は虚無僧姿で歩くこともあると聞いた。

 六月一八日、大阪の東北、高槻・枚方あたりを震源とする大地震があった。『Recherche』が届いた翌々日のことである。小学校のプール脇のブロック塀が倒れ、生徒が亡くなったとか、マンションに住む高齢者が本箱の下敷きになり命を落とした、そんな奇禍を知らせるニュースが流れた。F君に見舞いの電話を入れた。勤め先に行く途中で地震に遭い、二時間歩いて家に戻ったばかり、倒れた家具類の片付けは今からするという。
 書肆R・Rには翌日電話を入れた。その時、虚無僧F君のことを話した。Yさんは会ったのはF君かも知れないと言った。床に散らばった本やCDで足の踏み場もなかったが、ようやく棚に収めるだけは収めた。整理を終えるのはまだまだと嘆く。
 阪神・淡路大震災も経験しているYさんから、後日届いた書籍小包の中には「まさか人生で二度も大地震に出くわすとは思いもしませんでした。年も年ですし、いろいろ整理するキッカケにもなりそうです」とメモがあった。『Recherche』まで整理されては貴重な楽しみが減る。エールを送ろう。

(2018.7.10)

松平先生の講義風景

光琳かるた(講演会場にて)

百人一首の資料

百人一首の資料(講演会場にて)