恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑫

-『野ざらし紀行』考12.熱田神宮 折々の記『いじめ―あるいは無垢の魂』―

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 長く所在不明だった芭蕉の「野ざらし紀行」挿絵入り自筆稿が再発見されたとのニュースに心躍らせている今日この頃でございます。
 芭蕉の手紙は偽筆が多いといわれていますが、この度、再発見されたのは約15㍍の巻物で有名な「山路来て何やらゆかしすみれ草」などの句を交えた紀行文に加え、旅先での風景を芭蕉が彩色で描いたとの由、大変興味いものです。

 さて、前回の先生の「野ざらし紀行」考で、芭蕉が大垣の廻船問屋、谷木因の家に宿したとの話を興味深く拝読いたしました。旅に死す覚悟で出立した芭蕉が「死にもせぬ旅寝の果てよ……」と詠った思いに心を馳せ、また、郷土・掛塚湊の船も桑名に寄港していたことを思い出し、交通の便が格段に発達した今日よりも、江戸時代の人々の困難を乗り越えての交流の幅広さ、人の心の豊かさを実感いたしました。
 先生の「折々の記」は、バレンタインデーのチョコレートのお話から、カカオの様々な原産地の興味深いカカオ含有量とエピソード、そして「素数」が出てきて驚きの連続でした。松平先生と同じく北高の素晴らしい恩師・故中村明先生(生物)が同窓会HPの「恩師訪問」に寄せて下さったメッセージに「フィボナッチ数列」の話がありましたが、「国語」の恩師でいらっしゃる松平先生の「素数」のお話、幅広い御見識にさすが北高の先生は素晴らしいと改めて一生徒として嬉しく感激致しました。
 さて、クリエート浜松5階浜松文芸館で現在、開催されている「松平和久先生所蔵品展」に私の同級生(新24回)の精神科医・鈴木康夫氏が先日、見に行かれて感想をFacebookに載せているので以下、御紹介いたしましょう。
「松平先生
 北高で古典を教えていただいた松平先生の所蔵品展を見にいった。クリエート浜松。
 古典、漢文は私の得意科目。とりわけ伊勢物語が好きだ。以前、FBで「ハイドパークの都鳥」と題してエッセイを書いた。ヨーロッパでホームシックになった時、業平の和歌を思い出したという記事を書いたのものだ。その伊勢物語を教えてくれた先生だ。
 古典文学や哲学は危険な魅力がある。一生を賭けて付き合ってもいいと思わせてしまう深淵さだ。
……(中略)
 今になって考えれば、松平先生は私のアカデミズムの入口にいらっしゃった指導者だったと思う。」
「ハイドパークの都鳥。
1974年、まだ1ドル270円の時代である。春に日本を出て一人旅の真っただ中、ドーバー海峡を渡ってやっとロンドンに着いた私は、ソーホーの中華街でラーメンや酢豚を食べて心を落ち着けた。
………(中略)
………wrenという単語を覚えた時のこと、なつかしい日本のことが連想して思い出された。
単語を覚えたのは北高の2年生の時だった。そして同じころに学んだ古典の教科書の伊勢物語の有名な場面が、暗記した通りに頭に浮かんだ。
在原業平が「かきつばた」をあたまにつけた歌「からごろもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ」の「「はるばるきぬる旅」に心が反応した。
………(中略)
さらに連想は続いた。
業平一行が関東に来て、川を渡ろうとすると、そこに鳥が現れて「あれなむ、都鳥」と渡し舟の船頭が教える。そうすると業平は都が恋しくてたまらなくなり「なにしおわばいざこと問わむ都鳥我が思う人はありやなしやと」と歌う。そしてその歌を聞いて「舟こぞりて泣きにけり」と。
こんな場面をハイドパークの湖のほとりで、wrenを見て思い出していた。
「業平一行のように、オレも泣きたいけれど、泣いても同じことだ。自分から希望してヨーロッパまでやってきたのに。ホームシックなんかに負けるもんか」と思った。
第一、 こんなことを簡単に思い出せるオレはすごいじゃないかと自分で自分を励ました。
のちに、都内に家を建てるための土地を探していた時、隅田川に架かる橋に「言問橋」という名がついていた。ああ、ここが業平が「いざこと問わむ」と歌った場所だと気づいた。」

 松平先生の「所蔵品展」は、6月19日まで開催されていますので、まだ御覧になっていない方は是非どうぞ。

 それでは、今回はまた、どのような楽しいお話をお伺いできるのでしょうか。

2022年5月25日 記

『野ざらし紀行』考 松平和久 十二 熱田神宮 ― しのぶさへ枯れて

  熱田に詣づ

 社頭大イニ破れ、築地はたふれて草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすゑて其の神と名のる。よもぎ、しのぶ、こゝろのまゝに生ひたるぞ、中々にめでたきよりも心とゞまりける。
 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉

 回船業を営む木因はオルガナイザーの才に恵まれていた。天和二(一六八二)年三月、桑名にいる木因から干し白魚を贈られたことへの芭蕉の礼状には、「其元(そこもと)御暇なき折々も人々御すゝめ成さるるの由、感心浅からず存じ奉り候」と、多忙な中を俳諧仲間の勧誘をする木因への感謝の思いが記されている。
 木因は、桑名から海上七里の道を熱田まで同道、芭蕉にその地の俳人林桐葉らを紹介する。芭蕉は桐葉亭に宿り、土地の俳人と俳諧の座を持つ。『野ざらし紀行』には記述はないが、扇川堂東藤の『熱田皺筥物語』によると、この時、芭蕉の《此の海に草鞋(わらんじ)捨てん笠しぐれ》を発句とし、桐葉、東藤を連衆とした三吟の歌仙、芭蕉の《馬をさへながむる雪の朝かな》を発句とし、閑水、東藤と巻いた三吟の歌仙などのあることが分かる。なお、《馬をさへ》の句は、『野ざらし紀行』では実際に詠まれた時をずらして置かれている。
 熱田神宮は荒廃していた。大きな神社だから、境内には多くの摂社・末社があるのだが、それらは縄を巡らしたり、礎石があることで、それと知られるばかり。
 《しのぶさへ》の句は、神宮前の茶店の風景を詠んだもの。

折々の記『いじめ―あるいは無垢の魂』 松平和久

 いじめについての報道は多い。その根絶についてわたしは悲観的である。弱肉強食の論理はまかり通り、異質のものの排除を集団秩序を保つ方法とする情念は世界に瀰漫(びまん)している。
 山本賢蔵の『きみは金色の雨になる』という痛々しいほどに無垢な悲しい作品を読んで、その思いを深くしている。

 芸術的才能を持ちながら、言葉のコミュニケーション能力のとぼしい弟と、聡明で優しい兄の物語である。同書の著者紹介には「一九六〇年、東京生まれ。東京大学法学部卒。84年、NHK入局。90~91年、テヘラン特派員。92~94年、プノンペン特派員。94~02年、パリ特派員。04年、退局。以後、フランス、カンボジアなどで旅の生活」とある。この作品は07年の出版だから旅の日々に書いたのだろう。タイトルの「きみ」は亡くなった弟。作品は「きみ」に語る形で進められ、よむ限りではほとんどが体験談と思われる。
 父親の仕事の関係で賢蔵(作品ではケンゾ-)が小学三年、蔵人が幼稚園のときパリに行き、公立の小学校・幼稚園に通う。ケンゾーへのリンチは毎日ある。キヤラテだの、ジュードーだのと言われ「殴られ、蹴られ」、休み時間には「唾を吐かれ、裸にされ、小便をひっ掛けられ、便所に閉じ込められた。なにせ、初めての外国人で、「黄色いやつ」なのだから・・・」。道を行くと、男の子が「シントック(中国人の蔑称)」といってビー玉を投げつける。
 「魔法使い」に見えた担任の女先生は見た目とは違い優しく算数の得意なのを知り、引き立ててくれる。後にある生徒が囁く、「先生はユダヤ人だから、昔だったらガス室に送られているよ」。救いの手を出す四人組の生徒もユダヤ人だった。
 小学校と柵を隔てた幼稚園に入った弟へのいじめは更に激しい。ある冬の日、体育の授業で校庭に出たケンゾーは柵の向こうに、裸にされマロニエの木に縛りつけられた弟を見つける。大声で呼ぶが反応はない。駆け寄る。手の込んだ縛り方で容易には解けない。ようやく解くと弟はへたりこむ。その経験から弟は喋らなくなる。70年代の話である。遠藤周作の『白い人・黄色い人』には戦後最初の留学生として渡仏した遠藤の受けた差別が書かれている。
 弟がクリスマスの贈物にもらった二匹のハムスターは成長すると、血だらけの闘いを繰り返す。喧嘩は昂じて一匹の耳は食い切られる。耳を失った方はそれから毎日々々金網をかじり、ある朝姿を消す。一匹が悄然として檻の中に残る。

 ケンゾーが中学生の時に、兄弟は帰国する。そして日本の学校でも異邦人扱いされる。小学生のクランドはいじめの格好の対象となる。学生服やシャツのボタンをすべて取られる。爪をはがされる。前歯を折られる。ランドセルの中に大便を入れられる。こんなことがこの国の学校にあるのですね。
 兄弟はトントコランドと名付けた少年の王国で、二人だけに通ずるトコラン語で様々な幻想を語る。くだらない大人にならない。理想を求めてやけくそに生きる。いざとなったら死ぬ。の三か条を生活信条として。この非寛容と一途さは危うい。

 ケンゾーが親の希望する大学に合格し、クランドは「よかったね」といい、「トコランはどうなっちやうんだろう」とひとりごつ。ケンゾーはいけないことをしてしまった気になる。
 孤独なクランドは音楽の女神に愛される。「きみが鍵盤を触れば、手垢にまみれたこの世が消滅する。最初の和音が響けば、みるみる新しい世界が芽を開く。にんげんを知らない、むき出しのままの、生まれたての世界が」。これも危うい。クランドはバンドの活動を始め、「少数だけど、ノアの箱船にのるには十分な数のひとたちをともだち」に持つ。ケンゾーはテレビ局の報道記者になる。内定が決まるとクランドは「よかったね」と力ない声でいい、「これからだってトコランは出来るよ」というケンゾーを「もう、いいよ・・・・」と苛立たしげに遮る。

 93年、ケンゾーは25年ぶりに特派員としてパリに戻るが、次第に生きている実感を失っていく。繁華なパリの町も重苦しい。ユダヤ系の人達の多く住む一角が心の避難所になる。
 近くの小さなレストランに三本足の黒い犬がいた。ほかの犬を見つけると喜んで近づく。ある雨の日曜日、雨の音、車の音の中に犬の悲鳴が聞こえる。三本足じゃあないか。広場の隅に後ろ足をビニールの紐で括られた三本足がいた。容易に紐は解けない。食い千切る。この体験は、いせひでこの絵を添えて、09年に『あの路』という絵本になっている。
 弟への電話が通じて、クランドがパリに来る。だが、音楽の楽園建設の夢に破れ、ぼろぼろになっている。ケンゾーは年代物のピアノを借りてきて弾いてもらおうとする。それを拒み「今のけんちゃんは腐りかけてる!」と睨みつける。
 ケンゾウはいう、「そろそろこれからどうするか考えろよ」。
クランドは虚ろな目で震えながら「わからない」と答える。
 「音楽をもういちど、やってみなよ。・・・もしできないなら、死ぬしかない」。その数日後、ケンゾウの留守中にクランドは浴室で自殺する。悔恨に苦しむケンゾウは仕事をやめ、クランドがパリに来る前にいたカンボジアにその足跡を尋ねる。
 『きみは・・・』以降の山本のことは知らない。

(2017.5.13)

松平先生所蔵品展にて

松平先生所蔵品展にて

松平先生所蔵品展にて

松平先生所蔵品展にて