恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑦

-『野ざらし紀行』考7.同行千里(ちり)の旧里-琵琶になぐさむ、7『中国の水』

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 秋も深まり、木々の紅葉が錦の如く織りなす美しい季節となりました。

 この度、この連載をご覧になっている松平先生のファンの皆様に嬉しいお知らせがございます。
 浜松市が文化芸術や教育の振興に優れた業績を上げた個人や団体を表彰する「浜松市教育文化奨励賞」を松平和久先生が受賞され、10月29日に授与式が行われました。

 松平和久先生、おめでとうございます。

 松平先生の著述集を出版された北高14回の松和会の皆様にとりましても、とても嬉しいお知らせになったようでございます。

 さて、前回の『野ざらし紀行』考の6は、「母の遺髪―手にとらば消えん なみだあつき 秋の霜」と詠った芭蕉の亡き母を思う心が先生の解説で、この年になったからこそ、とてもよく分かるような気が致しました。

 また、「折々の記」6の題名を見て、はじめ私の頭の中では「椅子」と「ブタ」が結びつかず驚きましたが、冒頭の「杜甫の終焉の地は洞庭湖の南、……」という一節を読んだ瞬間、ああ、「さすが松平先生の格調高い文だ」と思わず引き込まれ、興味深く、楽しく拝読させて頂きました。

 さて、今回はどのような素敵なお話をお伺いできますでしょうか。

『野ざらし紀行』考 松平和久 七 同行千里(ちり)の旧里-琵琶になぐさむ

 大和の国に行脚して、葛下(かつげ)の郡(こおり)竹の内と云ふ処は、かの千里(ちり)が旧里(ふるさと)なれば、日ごろとゞまりて足を休む。

 わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

 二上山(ふたかみやま)当麻寺(たいまでら)に詣でゝ、庭上の松をみるに、凡そ千(ち)とせもへたるならむ、大イサ牛を隠すとも云ふべけむ。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ、幸ひにしてたつとし。

 僧朝顔幾(いく)死にかへる法(のり)の松

 芭蕉は千里(ちり)を伴い伊賀を出る。千里の故郷は河内につづく竹内街道に沿う。数日滞在。「綿弓や」の句は真筆が残り、里(さと)長(おさ)油屋喜衛門と交わり、旅の愁いを慰められた芭蕉が、その高潔な人柄を称えて詠んだものと分かっている。しかし、『野ざらし紀行』に喜衛門についての記述はないから、千里への挨拶の句と読めばよい。この地は綿の生産地。綿弓は綿を精製するための道具。竹林の奥から聞こえてくる綿弓のびんびんと鳴(な)る音を琵琶の音に喩える。竹と琵琶は隠士の象徴である。
 大津皇子を悼んだ大伯皇女の、「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)とわが見む」は名高い。その二上山に近い当麻寺は中将姫伝説でも知られる。芭蕉は寺を訪れ、巨松を見て、境内に生えたおかげで伐られずに長寿を得たのだと心打たれる。
 「僧朝顔」は、この寺の僧も、松にからむ朝顔も、生死を繰り返しているのに、寺は、即ち仏法は千年の松のように不滅だ、の意。この当麻寺の章に「仏法僧」の三文字をよみこんだ趣向はおもしろいが、観念的に過ぎるようである。

折々の記『中国の水』 松平和久

 杜甫の後を追う旅で白帝城に行き、長江三峡ダムの船閘門(こうもん)を通った。万トン級の船の通る五段階方式の閘門で、現在は四つ使用、09年の全稼働時には正常貯水水位は一七五mになる。すでに一四〇m、水没した農地、移転を余儀なくされた人は多い。貯水による自然環境・経済構造の変化の真相は駆け足の観光客には分からないが、旋渦飛流、白波激浪の叫びが峭壁に谺するはずの長江は、怪異な山容を見上げ得るとはいえ、流れるともなき流れであり、ダムの上流の江水は一見したところ、すべて人間が支配した感がある。

 杜甫は晩年の数年、長江沿いの忠州・雲安・夔(き)州を転々とし、四百余篇の詩を作る。その「最能行」は詩人が夔州の白帝城の近くに住んだときのもの。死を軽んじ、小舟を操り、水に生きる「峡中の丈夫」を歌う。「……帆を欹(かたむ)け柁(かじ)を側(かたむ)け波濤に入る、旋を撇(はら)ひ濆(ふん)を梢(はら)ひて険阻を無(な)みす。朝に白帝を発して暮には江陵、頃来(けいらい)目撃するに信(まこと)に徴有り。瞿塘(くとう)天に漫(はびこ)り虎(こ)鬚(しゅ)怒る、帰州の長年行(や)ること最も能(よ)くす……」。旋は水が渦をつくる様。濆は水が盛り上がる様。また「朝に白帝を発して暮には江陵」の江陵は、別名荊州。李白の「朝に辞す白帝彩雲の間、千里の江陵一日にして還る」を思わせる。水の流れはそれほど速かった。頃来は日頃。徴は証拠。瞿塘は峡谷の名。虎鬚は灘の名。帰州は地名。長年は年長の者。一説に舟の棹を操る者。その年功を積んだ者なのだろう。行(や)るは舟を操ること。

 この地の出身の楚の憂国の詩人屈原を称える思いを込めて、「若(も)し土(ど)に英俊の才無しと道(い)はば、何ぞ山に屈原の宅有ることを得む」と杜甫は歌い収める。その末裔たちは蓄水が進むまで流れを溯るに、竹縄で崖を縫い岩を伝って船を曵いた。いま長江支流の神農峡は有数な観光地だが、そこでは静かな鏡面のクルーズの最後に、海水パンツにシャツの船子(かこ)たちは浅瀬に降りて、形だけ船を曳く。

 日本のダムに、土砂の堆積で貯水量が減っているところがあるが、三峡ダムでもその懸念はある。上流の砂防ダムもどの程度の効果があるか。01年春、黄河の三門峡ダムでは、岸辺の楊柳の幹が浸るほど水が溢れていたが、土砂の堆積で、見てくれの蓄水量が豊かなだけだと聞いた。長江流域の岩盤は、黄土地帯とは異なり、土砂の堆積は緩やかだろうが、安心はできない。

 三峡ダム建設の目的の一つには、中・下流域を水害から守ることが挙げられているが、この春の旅で見た洞庭湖は、湖自体が縮まっていた。湖畔の名勝岳陽楼から水を隔てて、舜

帝の二人の后の墓のある君山がある。十年程前までは岳陽楼下の船の発着場から二妃墓の傍らの船着き場まで湖を渡ったそうだが、今回はバスで大きく迂回した。一昔前、日本人観光客に広さを説明するのに、琵琶湖の七・五倍といっていたのが、五・五倍に変わった。これは三峡ダムの影響もあろうが、先進工業国のどこにも見られる水の大量消費が一番の原因なのだろう。こうした人知の横暴がいつ、しっぺ返しをされるか分からない。洞庭湖のあたりは昔、雲夢(うんぽう)の沢と呼ばれ、竜が臥し虎が眠る場所だったという。杜甫は最晩年、長沙から湘江を南に行く途中、耒(らい)陽(よう)で洪水に遭って引き返し、間もなく他界する。

 99年、孔子生誕二五五〇年祭で山東省の曲阜に出掛けた時、生誕の地と伝承されている郊外の尼山(じざん)にいった。山麓を流れているはずの泗水(しすい)は白い河原に陽がきらめくばかり。水は一滴もなかった。そこは孔子が川の上に在りて、逝(ゆ)く者は斯(か)くの如き夫(かな)。昼夜を舎(お)かず、といったはずの所である。一行の某さんが論語のその句を引いて嘆いたのが忘れられない。そのときの旅では、趵突泉など七十二の名泉があるという済南にも寄ったが、水面が盛り上がるほどの湧き水は昔話でしかなく、全く涸れた泉も目に付いた。黄河の水が途中で消えてなくなるとか、北京の数十㎞近くまで砂漠化が進んでいるとか、水についてのニュースは呆れるものばかりである。

 けれども、これは中国だけの話ではない。天竜川も大井川も雨季には川だと分かるが、普段は泗水と似たか寄ったかの白い河原だし、河口近くの畑は水に代り塩水がしみ込んでいる。佐鳴湖も湖底の湧水量はほとんどない。

 日本は降雨量が多いが、林道の網の目が水の道を切り、加えて杉檜の植林が保水力のない山に変貌させている。水田の減少。市街地での過度の舗装。飲料水は海洋深層水に頼る。
大地自体が渇いているのではないか。周りに水分の減ったマグマは熱し、吹き上がり、大地を軋ませ、ひび割らせる。そんな情景すら目に浮かぶ。いま生活水に苦しむ人は地球上に20億人いるという。半月程前のA新聞には、20世紀が「石油を巡る戦争」の時代だったのに対し、21世紀は「水を巡る戦争」が懸念される云々とあった。

(2005,6,3)