恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑥

-『野ざらし紀行』考6.母の遺髪、折々の記6.『椅子とブタ』-

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 いよいよ静岡県にも新型コロナウィルス感染症の緊急事態措置が発令される中、2020東京パラリンピックが開催され、苦難を乗り越える力を多くの人が共有し、何事もあきらめずに努力することの大切さを実感いたしました。

 さて、前回の「野ざらし紀行」考の五 西行谷 のタイトルに 芋洗う女 と続くのを見て、私の頭の中では「西行」と「芋洗う女」が結びつかず、読み進むうちに松平先生の解説で、ああ、こういう話だったのかと、新鮮な驚きを感じました。
 「芭蕉の西行への敬愛は、西行と同一化したいとの願望にまでなっている」
 「蘭の香りをたきしめた艶美な蝶が舞い立つ」
 気品をたたえて、ほのかな香気を放つ蘭と、美しく妖艶な「蝶」、旅の中にある人間としての出会いに古の歌人の思いと叙情を先生の言葉で感じることができました。

 先生「折々の記リメンバー・下田」は、冒頭の三宅島の噴火・噴煙、火砕流が海岸まで流れ出た自然の凄まじさの話に、最近の熱海の大規模土石流などの自然災害を重ね合わせてしまいました。先生の故郷が下田で、『伊豆の踊り子』の下田での宿「甲州屋」が先生のお宅の近くだったとのこと、天城峠を徒歩で越えようとする若き日の先生たちの青春の一コマが目に浮かびました。
 私も、20年位前には、伊豆をよく旅行し、下田も何回か訪れたことがありますが、下田蓮台寺や河津七滝の初景滝にある伊豆の踊子像などを改めて懐かしく思い出しました。

 それでは、今回はまた、どのような楽しいお話をお伺いできるのでしょうか。

『野ざらし紀行』考 松平和久 六 母の遺髪 - 手にとらば消えん

 長月の初め、故郷に帰りて北堂(ほくだう)の萱草(くわんざう)も霜枯れ果てて、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢(びん)白く、眉(まゆ)皺(しわ)寄りて、只(ただ)命ありてとのみ云ひて言葉はなきに、このかみの守り袋をほどきて、母の白髪(しらが)をがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老いたりと、しばらくなきて、
  手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜

 芭蕉の母の死は前年の六月二十日、すでに一年余りが経っている。「北堂」は母親の部屋。転じて母親を指す。「萱草」はワスレグサ、別名忘憂草、昔の中国では北堂の庭に植える習わしがあった。北堂はそのため萱堂ともいう。母の死から長い時間が経ったことを「北堂の萱草も霜枯れ果てて、今は跡だになし」と比喩的に表現する。この前の帰郷は延宝四(一六七六)年だから、九年振りの帰郷である。迎える兄半左衛門も感無量。「このかみ」は子の上、兄のこと。
 「浦島の子」は芭蕉の帰郷が久し振り故の比喩。「玉手箱」は母の遺髪をいれた守り袋を指すが、浦島伝説を踏まえ、「汝がまゆもやゝ老いたり」に続く。
 この章について、尾形仂『野ざらし紀行評釈』は、「帰りて」「霜枯れ果てて」「替はりて」「皺寄りて」「命ありて」「言ひて」「ほどきて」「泣きて」と「て」を畳みかけた文体に、痛切な感情の高ぶりを汲むべきであろう、と指摘している。
 句は「手にとらば消えん/なみだぞあつき/秋の霜」と、八・七・五音に切れる。散文的にいうなら、慟哭(どうこく)の熱き涙ゆえに、母の遺髪、すなわち秋の霜は、手にとらば消えるであろう、ということになる。

折々の記『椅子とブタ』 松平和久

 杜甫の終焉の地は洞庭湖の南、湘江流域といわれる。これに異論はない。しかし、杜甫の墓となると五つも六つもある。その一つが湖南省の平江県安定鎮小田村にある。
 そこの訪問が、今回の旅の一番の目的だった。安定鎮では杜甫を売り物に村起こしを図ろうと、今年二〇〇五年の秋杜甫シンポジウムを予定している。杜甫墓を尋ねて来た大勢の日本人の接待を、シンポジウムのリハーサルと見たか、予祝と見たか、道普請までして迎えてくれた。だが。道の凹凸はバラスでなくなるが、道幅までは広がらない。
 処々で人家に引き込んだ電線を切らないよう竹竿で持上げて徐行する。この村には犬が多く軒並み飼っている感じがする。ふだんバスは通らないのだろう、老若男女は家の前で静かに見ている。犬は怪しい闖入者に尻尾を巻いて逃げる。鷄も多い。ふだんは、鶏犬の声相聞こえる村にちがいない。丘の道は杜甫廟に近づくにつれ狭くなる。

 廟は丘の上に立つ大きな建物。シンポジウムを前に内部は改装中だった。正面に「詩風萬古甲申孟春 趙炎森書」の扁額が掛かる。「炎」は「火」が「森」と同様三つ書かれている。この五月三日、上海での世界卓球選手権で、福原愛ちゃんを破ったのが郭炎選手。新聞では正三角形型に書いてあったが、テレヴィのテロップは「炎」と流れた。この文字は杜甫の生まれる前から使われている由緒正しい文字だがわがワープロにはない。中国では。商売繁昌の願いを込めて「金」を三つ重ねた看板の文字をよく見掛けるが。拝金主義があからさまで、どうも駲染めない。
 干支も困りもので。甲申だけで年次を判断するのは難しい。墓碑は正面に「唐左拾遺工部員外郎杜文貞公之墓」とあり、横に「九年癸未年冬十月口口筆」とあるから一八八三年。
 扁額が同時代のものなら、清朝末期の「光緒十年」、明治一六年のものとなる。だが扁額文字も意味も杓子定規だし、揮毫した人の名前も安手だし、年を経たものとは思えない。最も新しい甲申は二〇〇四年。懐疑は真理の母と我を張るつもりもないが、これもシンポジウム用ではないか。変なことを考える。猜疑心に災いあれ。
 安定鎮の共産党の趙書記殿は、廟の入口で私たちを迎え挨拶をしてくれたが、少々型に嵌まっている。この書記殿が趙炎森その人ではないか、それなら帳尻が合う。独断に溺るるなかれ。そんな囁きが聞こえる。
 修復中の廟内を見て、奥の墓に詣でる。廟の柱の基部の蓮花文の反(かえ)り花(ばな)が遠い唐代のものと聞き、中庭のいかにも老木らしい羅漢柏を仰ぎ、土饅頭に近づくと、それまでのわがあざとさは消えていた。墓参を終えて、廟の前の広場に戻り、広場の隅に崩れかけた土饅頭群のあるのに気づいた。昔からこのあたりは、墓域だったのだろう。

 その帰路。丘の中腹に作られた狭い道を上り下り、右折左折するうちにバスは右後輪を外した。右下は畑、路肩は弱い。アクセルを踏んだら、大きく一揺れ。車体はいっそう沈む。とても乗ってはいられない。
 私たちは、100mほど離れて一軒だけある屋の軒先を借り、車輪の上がるのを待ったが、時間は経つばかり。その上に雨もぱらぱらくる。摩托(もーたー)屋では小さな木椅子をたくさん出してくれる。実はオートバイの修理は息子の仕事で、主人の李さんは椅子作りの職人。私たちは椅子作りを見物する。松材だというが、やにがべとつく様子もないから、日本の黒松・赤松とは違うのだろう。割に太い松が自在に曲がる。ノコギリも不思議な形。欧米式に押す力で切る。一脚16元、日本円だと200円余り。一日に三、四脚作る、と穏やかな笑顔で話す。
 庭先にナズナを盛った竹籠があった。鶏もいない。食べるのかと婦に尋ねると、手を横に振る。木の扉を指して何かいうのだが分からない。扉を開けるとブタがいる。母ブタが横たわり、柵を隔てて子ブタが3匹。1匹は肥立ちが悪くよろよろ、餌を食べる元気もない。8匹生まれて5匹は死了(スーラ)。小さな声で肩を落とす。子ブタは一匹300元。一五〇〇元の損失になる。道が悪くて困る、日本は金持だから直してくれれば嬉しいと、婦(つま)の鍾さんは冗談らしくはにかみながら語った。

 17時を回り、事故後一時間半経ったがバスは上がらない。私たちは、李さん、鍾さんの家を後に、街道筋まで小さな水溜まりのある2㎞ほどの道を歩くことにした。街道筋の集落に着いたのが一七時三〇分、そこでも村の人たち、駆け付けた公安関係の人たちは、我がことのように案じ、奔走してくれた。バスが上がった知らせのあったのは二一時。長沙のホテル到着は日付が変わっていた。
 帰国すると直ぐ「反日」デモのニュースが新聞、テレヴィを賑わわす。一五年戦争の澱(おり)はあるだろうが二日続きの思いがけない事故で知った人たちの厚情を思い出すと、質朴な民衆の間で決定的なものとは私には思えない。

(2005.5.4)