恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載⑤

-『野ざらし紀行』考5.西行谷、折々の記5.『リメンバー・下田』-

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 コロナ感染拡大の中、東京五輪が開催され、連日の猛暑の中、自宅で観戦されている方も多いことと思いますが、改めて暑中お見舞い申し上げます。

 さて、前回の『野ざらし紀行』考四外宮詣でを拝読させて頂き、「寸鉄をおびず、襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。……」の一節が松平先生の解説で、なるほど芭蕉が僧のような姿をしていることが目に浮かびました。また、伊勢神宮は神社だから、「浮屠属にたぐへて、神前に入る事をゆるさず。」という話に、当時の神社と僧の関係にうなずきました。

 また、『四川雑記』三星堆のお話も、とても勉強になりました。杜甫の「杜鵑行」の杜鵑(とけん)がホトトギスの別名であること。そして、先生の文の一節、「望帝杜宇は民衆に農を教え勧める。生きて杜宇、死んで杜鵑。つねにホトトギス。血を吐いて鳴きつつ、農時の来たことを告げたというのである。……(中略)清少納言は、ほととぎすの声で田植えを始めねばならない農民の気持ちは知らない。」に、感動しました。

 また、三星堆博物館の展示物の迫力に圧倒されました。中国文化の奥深さを知り、いつか、コロナが終息したら、訪れてみたいと思いました。

 さて、今回はどのようなお話がお伺いできるでしょうか?

『野ざらし紀行』考 松平和久 五 西行谷 ― 芋洗う女

 西行谷の麓(ふもと)に流れあり。をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、

  芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

 其の日のかへさ、ある茶店に立ち寄りけるに、てふ(ちょう)と云ひけるをんな、あが名に発句(ほっく)せよと云ひて、白ききぬ出しけるに書き付け侍(はべ)る。

  蘭(らん)の香(か)やてふの翅(つばさ)にたき物す

 閑人(かんじん)の茅舎(ぼうしゃ)をとひて、

  蔦植ゑて(つたうえて)竹四五本のあらし哉(かな)

 十日ほどの伊勢滞在中に、芭蕉は幾度か土地の俳諧師たちを尋ね、連句を巻いている。その合間に、西行ゆかりの西行谷に行く。そこには西行開基と伝えられた神照寺という尼寺もあった。谷川の流れで芋を洗っている女を見て、芭蕉は呼び掛ける。ここでは、芭蕉の西行への敬愛は、西行と同一化したい願望にまでなっている。
 風瀑か千里かが色茶店の女に、芭蕉を江戸の俳諧の宗匠だと話したのだろうか。その時の話が土芳の『三册子』にある。「家女料紙持ち出でて句を願ふ。その女のいはく、我はこの家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし侍る也。先のあるじも、鶴といふ遊女を妻とし、その比(ころ)、難波の宗因、ここにわたり給ふを見かけて、句を願ひ請ひたると也」先代は宗因に鶴という名を入れた句を頂戴した。蝶女は自分の名を入れた発句を詠んでほしいと頼む。蘭の香りをたきしめた艶美な蝶が舞い立つ。

 閑人は伊勢の人廬牧。この句からその清雅な人柄が浮かぶ。其角編の芭蕉追悼集『枯尾花』に廬牧は「せめてその笠みて行かんあられ笠」を寄せている

折々の記『リメンバー・下田』 松平和久

 三宅島の島民が、非常要員を除き全員、島から避難した後も、雄山の噴火・噴煙はおさまらず、火砕流が海岸まで流れ出たとか、泥流が村道を寸断したとか、自然の凄まじさを物語る映像が送られ続けている。きのうは島外への避難を、不慣れな東京生活はしたくないし、飼っている猫を残しておくわけにいかないからという理由で、ひそかに隠れていたひとり住まいの六十代の無職の男性が見つかったというニュースが流れた。偶然私と同い年だった。ひとり住まいというところは私とは違うけれども、同じ状況に置かれて、もしひとり住まいだったら、同じことをするのではないか、と思われた。
 ニュースの中には、伊豆の下田に仮の住まいを求めた漁民たちの話もあった。漁船で避難すれば、船で島の様子を見にゆくことも、漁場に網を曳くこともできるという。
 『波浮の港』の風便りではないが、大島のみならず伊豆七島と下田港との関わりは深い。

 いつか、わたしは遠い少年の日に戻っていた。最後の旧制中学校生として下田近在の中学校に入った昭和二十一年の初めから高校を卒業するまで下田で過ごした。小さな漁師町だったけれども、南伊豆の行政の中心ではあり、河口の港は整備され、潮風に晒された波止場やドック、魚市場のあたりは、心のなし賑やかだったように思う。通っていた学校は下田の町から北に徒歩で四十分ほどの山峡の温泉場にあったが、そこには伊豆七島から来た学友も少なくなかった。下宿していた者も、寄宿舎にいた者もいた。親元を離れている彼らに寂しい時もあったろうが、春や夏の休みが近づくと、彼らは島のことをやや華やいだ様子で話していた。
 『伊豆の踊り子』の旅芸人の一行は大島の波浮の港の出身で下田で泊まったあとは大島に帰る。下田での宿は甲州屋。名前も同じモデルは私の家の近くだった。小説のなかに甲州屋が出て来たときの不思議な感じは、今も思い起こす。川端が伊豆の旅をした大正末は、港も粗末で、東京や伊東通いの船の着岸する波止場はなく、船客は小さなはしけに乗って船に近付き、縄梯子でよじのぼったらしい。踊り子ははしけには載らず、遠くから見送ったはずである。

 大学生のころ、帰省するわたしには、しばしば学友が同行した。彼らは、『伊豆の踊り子』に青春の幻想をつのらせ、天城峠を徒歩で越えたいのだった。露天風呂のほとりで体を伸ばして手を振る娘の若桐のような四肢を夢見ていたかも知れない。昭和二十年代の終り、天城峠を越える踊り子など、実際にはいるわけもなかったのだが。
 大島には一度だけいったことがある。これも学生時代の夏休み、帰省中の友人の誘いで出掛けた。下田の港から、名前は忘れたが、東海汽船の船での日帰りの旅だった。
 わたしはひどい船酔いの体質だけれども、海は凪ぎ酔わずにすんだ。元村港のちっぽけな土産物店で、絣を着たあんこが椿油を売っていたし、三原山の火口近くまで客をはこぶ馬はあったが、観光だとか、ツアーだとかいうことばが賑々しく使われるような時代ではなかった。丈の低いツバキの林を通って日光を遮るもののなにひとつない、歩きにくい火口への道を、ただ歩いたような気がする。
 そんなことから、大島だけでなく、新島、利島、神津島、三宅島などには、したしい思いを持つ。

 『リメンバ-下田』は、下田市が故郷を離れた人々に送る広報紙である。B4判で二、三枚。四季に一度の送付。いったい何部作るのだろうか。小さな自治体の財力ではこうしたものの発行も容易ではあるまい。『リメンバ-下田』の橙色の封筒が届くと、普段は忘れている下田での少年時代の日々が蘇る。封筒のおもてには、下田の風景が版画や写真で印刷されている。それはアロエの花であったり、パンパスの花のかなたに見える灯台だったり、太鼓祭りの情景だったり、ナマコ壁と万蔵山だったり、ミカン狩りに興じる子供たちだったりする。私の子供のころは、たぶんアロエもパンパスも栽培していなかったし、観光客相手の果樹園もなかったろう。しかし海も山もナマコ壁も変わらない。
 なかには、市長の随筆。各種イベント・市民活動・人口統計・市が購入した無公害車や救急車の紹介と、きめ細かい。時には、散歩コースの案内から、釣り情報、金目鯛の調理方法までが載っている。水仙まつりのリーフレットも来るし、少し前には「イズノスケ」という蛙のシールが入っていた。そこにはウインクを送る蛙もいた。故郷にたまにはカエルよう呼び掛けているのだろう。経済の多くを観光に頼る、半島の先の小さな市の求愛行動だろう。それでも、仕事ある身には、それに応えることはむつかしい。
 この十月の中旬、高校時代の同窓会を、南伊豆の下賀茂温泉で開くという通知が先日届いた。古希を目前にしたうんぬんの通知にはたじろぎを覚えたけれども、ここしばらくの欠席続きのお詫び、伊豆七島の地震の余波で客足が遠のいたという伊豆へのささやかな、ささやかな激励を兼ね、『リメンバ-下田』を実行しようと思い、出席の返事を出した。
 いま、わたしの目には、ふかい藍色の伊豆の海と、かなたの島々の影、磯に寄せ砕ける波がしらが、潮鳴りとともに浮かんでいる。

(2004.11.1)