恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載④

-『野ざらし紀行』考4.外宮詣で、『四川雑記』4.三星堆-

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 停滞する梅雨前線の影響で、前日に続き広範囲の大雨となり、48時間雨量が7月の観測史上最大を記録したとのニュースが駆け巡っていますが、今年も各地で大きな被害が出ないことを祈るばかりの今日この頃でございます。
 前回の「小夜の中山」を改めて読み返してみると、おそらく秋雨前線で終日雨が降り続き大井川の川留めで島田の宿で芭蕉一行が過ごしている情景を思い浮かべ、当時の旅の難儀さに想いを馳せました。

 また、『四川雑記3板橋渓』の一節に、先生が「鹿台を踏みつける」とのお話に私たち2人は、「先生は何を踏まれたのかしら?」と、いろいろ想像をめぐらして、考えてしまいました。「鹿」の糞ってどんなものかしら?いやいや、先生はユーモアで婉曲的に人糞を「鹿台」と仰っているのかもと……。
 小学校の一年生の教室を訪れたくだりに、孟浩然の「春暁」、王之渙「登鸛雀楼」、李白「望蘆山瀑布」が板書されていたとのこと。

  李白「望蘆山瀑布」
  「日は香炉を照らして紫烟生ず
   遥かに看る瀑布の長川を挂(か)くるを
   飛流直下三千尺
   疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるかと」

 私たちが高校の時の漢文の教科書を懐かしく思い出しました。

 それでは、今回は、どのような楽しいお話がお伺いできるでしょうか。

『野ざらし紀行』考 松平和久 四 外宮詣で ― 千年の杉を

 松葉屋風瀑が伊勢に有りけるを尋ね音信(おとづれ)て、十日ばかり足をとゞむ。腰間(ようかん)に寸鉄(すんてつ)をおびず、襟に一嚢(いちなう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携ふ。僧に似て塵あり。俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属(ぞく)にたぐへて、神前に入る事をゆるさず。
 暮れて、外宮(げぐう)に詣で侍りけるに、一の華表(とりゐ)の陰ほのくらく、御灯(みあかし)処々に見えて、また上もなき峰の松風、身にしむばかり、ふかき心を起して、
  みそか月なし千年(ちとせ)の杉を抱くあらし

 松葉屋風瀑は伊勢の御師(おし)で、通称七郎大夫。江戸に滞在中、芭蕉を深川の芭蕉庵に尋ねたことも、信徳・其角らと連句を巻いたこともある。貞享元年、すなわち野ざらしの旅の年六月、伊勢に帰る風瀑に、芭蕉は《忘れずば小夜の中山にて涼め》の句を贈る。小夜の中山の章が一気に風瀑の章に飛ぶ理由が、そこから推量される。
 少し語意を記す。「寸鉄をおびず」は丸腰であること。「一嚢」は頭陀袋。「十八の珠」は禅宗の数珠。「浮屠」はブッダの音写、ここは僧侶の意。
 芭蕉は僧形で外宮に詣でる。ところがこの時代は僧尼・山伏・法体の人は神前で拝むことができない。『伊勢参宮名所図絵』によると、三の鳥居を通り、二の鳥居の前の僧尼拝所から遥拝したことが分かる。一の鳥居の奥の正殿はほの暗い。
 ここでは西行の「深く入りて神路(かみぢ)の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風」を引く。神路山は内宮の南にある山。この旅の目的の一つは西行の跡を追うこと。西行への思いは漸層的に高まる。暗い闇の中で峰の松風の音を聞き、千年を経た杉群を抱く嵐気に包まれ、芭蕉は「かたじけなさに涙」(西行)をこぼしていたことだろう

折々の記『四川雑記』 松平和久

四、三星堆

 李白の古詩『蜀道難』は、『箱根八里』の「一夫関に当たるや万夫も開く莫し」の典拠となった詩だが、そのはじめは「蜀道(しょくどう)の難(かた)きは青天に上るよりも難し/蠶叢(さんそう)と魚鳧(ぎょふ)と国を開きしは何(なん)ぞ茫然(ぼうぜん)たる/爾来(じらい)四万(しまん)八千歳(はっせんさい)」とあり、杜甫の『杜鵑(とけん)行』の冒頭には「古時杜宇望帝と称す、魂は杜鵑と作る」と詠む。蠶(蚕)叢、魚鳧、そして杜宇即ち望帝は伝説の古蜀の王とされている。杜宇(とう)、望帝(ぼうてい)、杜鵑はすべてホトトギスの別名だから、ふたりの詩人に詠まれた蜀の王は、カイコであったり、サカナであったり、ミズトリであったり、ホトトギスであったりすることになる。だから、きっとそれらをトーテムとする氏族がいたのだろうとは思っても、どうにも現実感が湧いてこない。少なくとも今回の旅をするまでは、そうだった。

 成都市の北に接して郫県(pi- xian)という街がある。「卑」は低いの意味、「おおざと」は村里の意味だから、水の豊かな土地であることをその文字がすでに語る。水郷といってもいい。街に入ると・店の招牌には水・湖に縁のある名のついているものが多い。

 望帝叢帝祠に行く。古代の蜀の望帝杜宇と叢帝開明とを祭る。高い白壁で囲まれた祠堂の入り口がふたつあり、左入り口の上には望帝杜宇を顕彰する「功在田畴」、右には叢帝開明をたたえる「徳垂揖譲」の扁額が掲げてある。祠堂にはおおきな望帝・叢帝の彫像が並ぶ。女の説明員が説明にはいる前に、小さな声を上げて彫像の前にある両帝の名を記した札を入れ替える。だれかのいたずらで置き換えられていたのだろうが、置き換えて正しくなったのか、本当に逆に置かれていたのかは全く分からない。観光客の気持ちを解きほぐすパフォーマンスでなかったとはいえない。

 望帝杜宇は民衆に農を教え勧める。生きて杜宇、死んで杜鵑。つねにホトトギス。血を吐いて鳴きつつ、農時の来たことを告げたというのである。私は『枕草子』に載る平安時代の田植え歌を思い出す。「ほととぎす、をれ、かやつよ、をれ鳴きてこそ、我は田植うれ」。清少納言は、ほととぎすの声で田植えを始めねばならない農民の気持ちは知らない。王朝貴族社会ではホトトギスは鳥の王者であり、その基準でものを見る。なぜホトトギスのことを悪く言うのか、彼女は解せない。農民にとって田植えは大変な労働だったろう、だから共同作業で乗り越えたし、悪しざまに罵ることで一息入れたのだろう。田植え時を過てば実りの得られないことなど百も承知だったはずだ。話が脱線しすぎたか。

 叢帝開明は水を治め、人徳をもって慕われたという。祠堂の周囲の広い池苑は幾つかに区分けされ、楼観・亭宇が散在し、それらには漣漪園・子規園。鏡湖・聴鵑亭など、ここにふさわしい名がついている。柳が長い枝を垂れ、花蘇芳などが咲く。両帝の墳墓に詣でる。しだいに古い蜀の帝王は実在したに違いない、そんな気持ちになってくる。

 程近い都江堰(とこうえん)は、山岳地帯から南下して来た岷江(びんこう)の水を治めるために作られた古代の水利施設だが、その街の中心広場には、その治水事業に携わったという李冰(りひょう)・李二郎父子の像が立っている。李冰は秦代の蜀の大守でまずは実在の人らしいが、李二郎は果たして何者か。二階堂善弘さんの『中国の神さま』の助けを借りてここからは書くのだが、中国の民間信仰の中に二郎神なるキャラクターがある。『西遊記』『封神演義(ほうしんえんぎ)』などでも、懲悪の役割を担う超能力者に変身して八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をする。都江堰のあたりはかつて灌口といったという。山地を割くようにして溢れ出た岷江の水が四川の平野に灌ぎ込む口にあったからだろう。その溢れる水は邪悪な神でもある。そして「灌囗二郎」なる語が残るのは、民衆がこの治水事業に二郎神が尽力したと信じてきたことの証左だろう。李冰と二郎神は同じなのかもしれないが、また李冰・李二郎父子神話も出来上がる。あれこれ想像しているうちに、蜀の古代の英雄らが頭の中を巡って止まない。

 成都から北に40㎞ほど、広漢市の三星堆博物館では、一九八六年来発掘の青銅器類が展観されている。これまで中国の青銅器というと人々は、黄河流域出土の、饕餮文・竜文・雷文など邪気払いの霊力をもつ不気味な文様に飾られた、祭祀用の各種の酒器・調理器具・楽器、あるいは武具を思い浮かべるのが常だった。ところが、三星堆(さんせいたい)では神樹やシャーマンと思われる人の立像のほかに、多くの人頭像・仮面・獣面などが出土した。

 たとえば、青銅の神樹は高さ4m余、精緻な細工を施す。シャーマン立像は台座を含めて高さ260㎝余、極度な痩身、やや吊り上がり大きく見開いた杏仁形の目、固く結んだ口、厳粛の気が満ちている。仮面の中には黄金に飾られたものもあるが、格別目立つのは、高さ82㎝、幅78㎝。巨大な耳を横に張り、顎まで裂けた囗を真一文字につぐみ、筋の通った鼻梁から、眉間、額、さらにその上に抜ける豪華な飾りを付けた異相の面である。異星からの凛々しい訪問者のようであり、静かさと威厳とに満ちた知的な相貌をしている。この面の最大の特徴は、眼球が前面に飛び出していることで、「華陽国志」の「菊侯蚕叢なるもの有り。其の目は縦、始めて王と称す」の記述から「縦目仮面」と名づけ、これを蚕叢に比定する意見が強い。蚕叢の蚕はカイコ、叢はアツマル。蜀地は養蚕が盛んで蜀錦を産したから、氏族の始祖を蚕叢と崇めるのはもっともで、蚕の頭の部分が膨らんでいることもあり、縦目と結び付いたのかも知れない。だが当時の蚕がどのようなものかは知らない。少年の頃、カラタチ垣にアゲハチョウの幼虫を搜したことがある。頭をつつくと、ダイダイ色の角を伸ばし異臭を撒き散らす。ヤママユガにも小さな角があったような記憶が、不確かだがある。この臭角を縦目と見たのだろうか。

 古蜀の王のひとり魚鳧は魚を捕る鳧とも、魚と鳧とも考えられそうである。前者ならば鵜、蜀地は鵜飼いがさかんだから妥当な見解。後者なら魚と水鳥。三星堆の神樹は多くの鳥に飾られているが、ほかの出土品にも鳥や魚の図柄がある。黄金の杖の文様は魚と鳥と矢とを組み合わせてあり、杜宇に滅ぼされたと『蜀王本紀』が伝える、三星堆王朝の最後の王魚鳧のシンボルとも、それらは見える。

 私は、高等学校の生徒として中国史を学んだころのことを思い起こしている。夏・殷・周・秦・漢と続く王朝の治乱興亡の歴史を、王朝の名前とともに覚えた。それは漢民族中心史観であり、黄河流域中心史観だった。長江流域が問題になるとしても、三国鼎立時代の呉や蜀であり、北方異民族の侵入ゆえに都を捨てて長江下流域に逃れてきた短命な南朝諸王朝や、南宋の話だったりする。だから、私のイメージする長江流域は流謫の地であり、風土病の多い低湿地であり、文化果つるところでしかなかった。

 この旅で、五千年も前の三星堆王国の遺物のほか、さまざまな未知のものとの出会いを楽しみながら、広い視野でものを見ることの難しさを思っている。わたしの知識の偏狭さは、それが異国のことだからではない。ことを日本に限っても、隼人の歴史も、蝦夷の歴史も、近代の歴史も知りはしない。アフガンでも、イラクでも、北朝鮮でも、新聞を賑わす事態になることで始めて知ることが余りに多い。

 世の中には、正義のあるところをご承知らしく、力づくで世界を領導しようとする動きはあるし、歴史のことは何でもご存知とばかり、創氏改名は先方の希望によると宣う政治家はおいでになる。懐疑派はぐずぐずおろおろし、自信家はそれらを蹴散らして進む、そんな時代になりそうな気配が忍び寄って來ている。この世のことに、かかわり得なくなった人間と知りながら、そんな思いは拭いされない。

(2003年)