恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載③

-『野ざらし紀行』考3.小夜の中山、『四川雑記』3.板橋渓-

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

 ごきげんよう、皆様。
 新型コロナウィルス拡大がワクチン接種で終息に向かうことを願う今日この頃です。
 松平先生の著述集御紹介も、はや3回目を迎えました。

 前回の「富士川のほとり―捨て子に秋の風」を、改めて、先生の仰るように声に出して読んでみました。年端のいかない捨て子の非情な運命と揚子江三峡の猿の鳴き声が心に染みわたりました。それとは対照的に、昨今、成年になっても子を溺愛する日本の親の愚かさが話題になることがありますが……。

 「『四川雑記』2,楽山」、興味深く読み進んでいくと、テレビドラマ『大地の子』の中国の名優・朱旭の話に思わず身を乗り出しました。そして、朱旭が大道芸人を演じる「変瞼」という中国映画を是非とも見てみたいと思いました。

松本亀次郎の教え子たち
(学問の四大志士たち展」より)

 また、歴史学者・文学者の「郭沫若(かくまつじゃく)」という人物の登場に驚きました。

 私は2018年東京お茶の水で「学問の4大志士たち展」という展覧会を開催しました。その時、東京学芸大学元学長・鷲山恭彦先生が、4大志士の一人・松本亀次郎(※中国人留学生教育に生涯を捧げた)の展示パネルを作成してくれました。亀次郎の教え子は魯迅、周恩来があげられますが「郭沫若」の名もあったことを思い出しました。
 先日、松平先生にお電話したとき、郭沫若についてお尋ねすると、東京教育大学の先生の卒業論文が「郭沫若」だったとの由、なるほどと納得いたしました。
 様々なご縁が重なり、新たな勉強をさせて頂きましたことに感謝いたします。

 それでは、今回は、どのような楽しいお話がお伺いできるでしょうか。

『野ざらし紀行』考 松平和久 三 小夜の中山 ― 残夢月遠し

大井川越ゆる日は、終日(ひねもす)雨降りければ、
  秋の日の雨江戸に指をらん大井川 千里(ちり)
    馬上吟
  道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり

 廿日(はつか)余りの月かすかに見えて、山の根際(ねぎは)いとくらきに、馬上に鞭(むち)をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行(さうこう)の残夢、小夜の中山に至りて、たちまち驚く。

  馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

 大井川を渡る予定の日は終日雨が降り、川留めになり、島田の宿に過ごす。江戸の人たちが、指折り数えて芭蕉がどこまでいったか語り合っているだろうに、この川留めでは予想は狂うだろうと、千里は興じる。川留めが幾日あったかはしらないが、無事に川を越え、金谷の宿から馬に乗る。小夜の中山越えの苦を思ってだろう。
 西行に、道のべに清水流るる柳蔭(やなぎかげ)しばしとてこそ立ち止まりつれの歌がある。この歌が奥の細道の旅で芭蕉の詩心を刺激したことは蘆野の章で分かる。川止めにあったとき、芭蕉はこの歌を思い出したのではないか。「道のべの柳」を「道のべの木槿」に替え、川留め体験の思いがけなさをムクゲを主語にした妙な受身文で表わす。カレーライスは子供に食べられた、酒は老爺に飲まれた、とは通常いわない。小夜の中山にふれるのは、これも西行の、命なりけりの歌を思ってである。
 後半は唐の杜牧の詩を下敷きにする。「秋の日の」、「馬に寝て」の破調も味わいたい。

折々の記『四川雑記』 松平和久

三、板橋渓

 楽山市の北郊に牟子鎮の板橋渓という小集落がある。唐の時代このかた、青渓駅といい岷江水運の要津だったそうだが、いまは、嘉州小三峡の美を探ねる船の発着所として辛うじて命脈を保っている。三月の下旬では船の観光には早いのだろう。
我々を除くとほかに観光客はいない。そのぶん、土地の人々の生活の匂いに触れることができた。

 楽山の市街地を抜けると道は急に狭まる。小型のバスでも楽には通れない。「橋梁施工車両漫行」の場所もある。家並十軒ほどの小集落がある。茶館があり、道にも小さな卓子と竹の椅子数脚とが置かれている。集落を過ぎると、道に沿って小川が流れ、両岸に竹が植えられている。水牛がいる。桃李の花が開く。竹外の桃花両三枝の趣。竹の葉がバスの窓に触れ、目を凝らすと、竹群の奥に農家が静まる。

 板橋渓に着く。この日は日曜日でもあり、辻の雑貨屋には人が集まり、雑談に興じ、路上では麻雀の卓を女たちが囲んでいる。雑貨屋の棚には商品が溢れ、軒先には「文君酒」の招牌が下がっていた。名前がいい。文君は漢代の蜀の卓文君のこと。貧しい詩人司馬相如は琴の音に恋心を託し、卓文君の心をとらえる。しかし貧しい詩人のことゆえ、身過ぎ世過ぎは容易でない。仕官の時を待って、ふたりは居酒屋を開く。相如は裏方、褌すがたで皿や徳利を洗い、文君は燗をつける爐前に座った。のちその詩才を知った武帝に召される。
「文君当爐」という名高い話。今様の文君がこの集落にもいるかもしれない。帰りのバスに乗る前、この店に立ち寄り、白酒を買った人がいたけれども、文君酒であったかどうか。ほかにも店先の椅子には編み物をする娘。小雨で埃のおさまった路上には遊ぶ子供。中国人は社交好きだと思う。食事の仕方もそうだが、路上で象戯を楽しみ、麻雀の卓を囲む。周りには覗きこむ人がいる。そんな光景を至るところで見る。道は移動を目的の空間だけでなく、社交の場であり、作業の場である。
しもた屋ふうの家の前に長机が二脚。脂がべっとり付き、包丁の傷がある。肉売り台だろうと同行のYさんはいう。軒先の小さな春聯に「爆竹一声除旧歳、霊通両句報新年」とある。後半の意味ははっきりしないが、「霊通」は素早いこと。神明のあらたかな感応力をいうのだろう。「両句」は春聯をさすのだろうか。

 乗船場まで狭い道を下り、二隻に分かれて岷江を遡航する。遠く、上流には、ぼんやりした山の稜線が烟霧の中に切れ切れに見え、遠近法的構図は心を落ち着かせる。あるいは母胎回帰願望もあるのかもしれない。近づくにつれて姿を見せる岩山は奇壁峭立の趣は少なく、しぜん水の上や岸辺の光景に目は向いていく。菜黄麦青。若草の萌える岸辺を、繁殖期にある水牛や山羊が仔を連れる。さかのぼれば桃源郷に行き着くか、そんな思いもする。けれども、岸辺の木々に青や白のビニールが掛かっているのは、雨季にはそこが冠水するからであり、四季いつでも農に適しているわけではない。白鷺が舞い、水鳥が泳ぐ。釣りをする人、川中の棚で作業をしている人、水辺で休む人、人事もまた風景を作る。

 遡ること90分、右岸に船を着け、岩場に下りる。観音堂があるという。道らしい道はない。灌木の茂る山の、勾配のきつい斜面をたどるのに似ている。崖にしがみつくようにしてようやく龕の前につく。身の丈ほどの高さの龕が二つ並ぶ。ひとつには「観音嵒前風掃地、高山頂上月圓燈」の楹聯が彫ってあったが、とても高山の頂とはいえず、地を掃う一陣の風もない。こうした句をみても、まどかなる月に円満具足の仏を見ることのできない下れる性はいかんともしがたい。

 所要時間45分、板橋渓に戻る。古い町並みが残っているとのことで、廂(ひ)あわいを抜けると、上り坂になる。ここで大失態を演じる。鹿台を踏みつける。靴底がすべる。兎のそれは名月珍、犬のそれは犬矢、牛のそれは茄退、馬は馬勃というようだが、有り体にいえば、大用・穢土・不浄である。春の草の助けを借りて、失態を拭う。子供の頃、父と散歩に出、黒板塀の下の方に「小用厳禁」の張り板のあるのを見て何のことか分からず、父親に尋ねたことがあった。当節、わが国では「犬の糞お持ち帰りください」、そんなプラスティックの板が塀の前に立ててあったりする。衛生観念が発達し過ぎた、民度の高いらしい国に生活しているものには、予想もつかないゆえの失態だけれども、さしたることではない。凡兆の句を捩るなら、市中のもののにおひや春の草、となろうか。

 坂を上ると、板橋小学。校庭から、狭い谷間の集落を見下ろす。瓦屋根と木々の作り出す穏やかな風景。調和を崩す形も色彩もない。

 休日の校庭に子供たちが遊んでいる。珍しい異国の客を子供たちは教室に案内してくれる。錠は掛けてない。ひょっとしたらないのかも知れぬ。格別の飾りもない一年生の教室に入る。黒板には「好好学習、天天向上」(いいないいな学習、まいにち向上)と大きく書いてある。これは毛沢東の言葉で、もう都会の学校では使われないようだが、地方の小さな小学校だからかも知れない。成都の天府広場には、大きな毛沢東の像がある。四川の人はゆったりした気性だと人国記ふうの言葉が語られているけれど、そうした気性が世の有為転変を長い時間でとらえ、詩人毛沢東の言葉を伝えていくのだろう。そのほか「説謊話、害処大、害自己、害大家」。嘘をつくと、人の器を小さくし自分を傷つけ皆を傷つけるから、「従小要説老実話」、小さい時から誠実に話さなければいけない、など行動の指針がいくつか書かれている。ここでは「老」という語は価値がある。親孝行、国土緑化の大切さを詠んだ七言絶句もあった。古人の絶句三首も板書されていた。孟浩然の「春暁」、王之渙の「登鸛雀楼」、李白「望廬山瀑布」である。ここでは児童教育は詩でおこなわれる。児童は口ずさみ覚えていくのだろう。一年生の話である。

 旅の仲間は、今回は大学生もいたけれども、おおむね還暦を過ぎている。幼児退行現象だろうか。子供に無性に親しみを覚えるふうである。昨年は江油の李白記念館で幼稚園の子供と写真を撮り。一昨年は杜甫ゆかりの石壕小学の子供たちとの交流を楽しんだ。そうした出会いがいつまでも心に残る。世間のことに責任を持たずに済むようになった者と、まだ持たない者との冥合だろうか。