恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載②

-『野ざらし紀行』考2.富士川のほとり、『四川雑記』2.楽山-

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

松平和久先生 近影
(2019年10月/
賀茂真淵記念館での講座にて)

 ごきげんよう、皆様。
 コロナ禍で、一喜一憂の毎日ですが…。

 先日、松平先生御夫妻とお会いいたしました。とてもお元気で、若々しくいらっしゃいましたことをご報告いたします。

 前回の連載①で、「『野ざらし紀行』考 江戸出立」の芭蕉の心が、先生の解説で、高校時代とは、また違った趣で理解できるような嬉しい芭蕉との出会いでした。これからが楽しみです。
 また、先生「折々の記」の「『四川雑記』1.大足 」は、中国の雄大な自然を背景に立つ壮大な石仏群のお話に思わず引き込まれました。先生が大庭みな子の短編「大足」を読まれて旅の計画に入れられたとの由、私の頭の中に残っていた断片に少しづつ光があてられるような感覚を覚え、感激いたしました。
 ひとつは、芥川賞作家の大庭みな子の夫・利雄の先祖は雄踏・宇布見の中村源左衛門家に繋がり、以前、中村家32代当主・中村正直様(浜松北高旧制51回)から頂きました御著書『負け犬の系譜―中村家800年の歴史』に出てきたことを思い出し、改めて紐解いてみました。
 また、誕生するやいなや右手を上に、左手を下に向けて「天上天下唯我独尊」と言った釈迦の有名な生誕伝説などをあげ、傲慢で不孝な人というユニークな解説をした大仏湾のガイドに是非とも私も会ってみたいと興味がそそられました。 

 では、今回はどんな楽しいお話がお伺いできるでしょうか。

『野ざらし紀行』考 松平和久 二 富士川のほとり ― 捨て子に秋の風

 富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨て子の、哀れげに泣く有り。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と、捨て置きけむ、小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日はしをれんと、袂(たもと)より喰(く)ひもの投げて通るに、

  猿を聞く人捨て子に秋の風いかに

 いかにぞや、汝、父に悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝がのつたなきを泣け。

 本文は、中村俊定校注の岩波文庫『芭蕉紀行文集』によるが、読みやすさを考え、動詞の活用語尾を補うなど少しだけ変更してある。「この川の早瀬にかけて」の文意ははっきりしないが、早瀬は渡るのは難儀だから、次の「うき世の波」の困難さと類義の表現とみてよいのだろう。「露ばかりの命待つ間と……」は、命の絶えるまでの間は耐えてくれ、と親が非情な思いで自分を納得させる様。「捨て置きけん」は、そのまま捨て子の比喩の「小萩」にかかる。源氏物語の「宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」を踏まえたエレガンシィが不自然にも感じられる。
 「猿を聞く人」の破調は、芭蕉が自己の俳風樹立の苦闘の中で好んだもの。揚子江三峡の猿の声は、平安朝以来わが国の詩人が観念のうちに増殖させた悲愴美の象徴だった。しかし、いま芭蕉はそれに捨て子の泣き声を対峙させる。
 対表現が多用され、短調のピアノ曲に似る。声に出して読むのにふさわしい。

折々の記『四川雑記』 松平和久

雎鳩二、楽山

 成都の南100㎞ほど、岷江に沿って楽山市がある。少し前は嘉定(嘉州)と呼ばれており、泊まったホテルも嘉州賓館だった。歴史の古いこの城市は、街の中心の道は入り組み曲折し、狭かったが、両側の店舗の落ち着いたたたずまいと、黒い気根を長く伸ばしている榕樹が印象的だった。この街の西で、北から流れて来る青衣江が西南からの大渡河と合流し、豊かな水量で岷江にぶつかる。そこに丹崖翠壁の凌雲山があり、凌雲寺がある。大昔から水難事故の多い場所だったらしく、凌雲寺の僧釈海通なるもの、舟の無事を願い弥勒仏建造を発願したのが、唐の玄宗の開元元(七一三)年。一代では出来ず、嘉州大守が公共事業とし、貞元一九(八〇三)年ようやく完成。当時は十三層の楼閣の中に金色に輝いていたという。

 テレビドラマ『大地の子』での練達の演技で、日本にも多くのファンをもつ老優・朱旭(チュウ・シュイ)が大道芸人を演じる映画に『変臉(ピェン・リェン)』というのがある。「変臉」の「臉」は顔。つよい隈取りの面を次々に脱ぎ替える四川の伝統芸である。老いた芸人は川舟を住家とし、岷江沿いの村々で芸を披露しては世過ぎとする。解放前の話である。だが老芸人には、それを伝える者がいない。悩んだ末に狗娃という男の子を買いとる。跡継ぎを得た老人は楽山大仏にお礼をいう。狗娃はやさしい老人に引き取られた幸せを全身に表して、大仏の足の甲を飛び跳ねる。後で思わぬことから、女の子だと分かり、老人は己の不運を嘆くのだが、後日談はここでは記さない。

 『変臉』を見て、弥勒仏の大きいことは承知していたのだが、近づくと余りに大きい。全体を正面から見るためには岷江に舟を浮かべなければならない。舟を下り、岷江を見下ろす険しい坂を上り、凌雲寺天王殿前に行くと、木々の間から大仏の頭が見える。螺髪も大きい。眼も大きい。鼻も大きい。弥勒大仏のところどころには木が生え苔が覆う。衆生の我がままな欲望に応えるには大きくなければならないだろう。善男善女は大仏の横手の九折桟道を水際近くまで下り、仰ぎ見る。上から眺めると、幼児の運動場にもなりそうな足の甲である。足の甲に馬はいないが、寸馬豆人といってよい。

 往復の所要時間30分とか。私は腰をかばって断念、境内をゆっくり歩く。放鳥用の鳥を籠に入れて、新聞を広げながらあてどなく客を待つ男がいる。「画眉 80元/只・・姻縁鳥・容光煥発、君子好逑」と値段とご利益とが書かれている。画眉はホオジロ、只は一羽。古い祝婚歌に「関関となく雎鳩(みさご)は河の洲に在り、窈窕な淑女は君子の好き逑(つれあい)」とあるのを借りて、すてきな配偶者を得られるとご利益を述べる。80元は日本円で一二〇〇円くらい。成都のレストランで働く若い女性の月給が八〇〇元と聞いたから、安い値段ではない。「八哥」、九官鳥も80元、こちらは「発財」、金持ちになれるらしい。

 「慈光鳥」80元、只・・・長寿鳥。「相思鳥」90元、これは「対」、つがいでないと、当然のことにご利益はない。そのご利益は「長命百歳、永保平安」。これでは、いかな欲深でも満足するだろう。

 ずいぶん前に亡くなったのだが、歴史学者で文学者、日本に留学もした郭沫若という人がいる。学生時代に一時、郭沫若の作品を読んだことがある。その郭沫若の出生の地が、楽山(嘉定)から大渡河を四、五〇㎞ほど溯った沙湾という集落。郭沫若の自伝『我的童年(私の幼少年時代)』によると、彼の少年時代は中国の近代的教育の揺籃期に当たる。一九〇三年、科挙制度が廃止され、大きな街に各種の学校ができたころ、彼はこの嘉定の高等小学校に入学。ついで嘉定中学、成都中学へと転じる。嘉定に出て来た頃、凌雲寺に詣で、「天下の山水は蜀にあり、蜀の山水は嘉州にあり」と実感する。そのとき少年の目は遠く、故郷沙湾がその麓にある峨眉山を望んでいただろう。日本に留学した時には市川に住んでいたが、ガイドのWさんの話では楽山市と市川市は姉妹都市だという。泊まった嘉州賓館にはレストラン沫若庁があったが、小冊子によると、凌雲寺の寺域にも彼を記念した沫若堂がある。その日の夕暮れ、峨眉山麓のホテルに向かう途中、路肩に沙湾に至る標示を見た。だが、目的地ではない。行くことは諦めざるを得ない。学生時代からほぼ半世紀が経つが、郭沫若の育った城市、郭沫若が登った山に来る機会があろうとは、すくなくとも一年前までは思ってもいなかった。