恩師「松平和久先生著述集」の御紹介:連載①

-『野ざらし紀行』考1.江戸出立、『四川雑記』1.大足-

【紹介者】幡鎌さち江(24回)、吉野いづみ(31回)

北高29回卒業アルバムより

 皆様、こんにちは。春らしい陽ざしを感じる今日この頃、桜の便りも待ち遠しい季節となりました。

 さて、この度、縁あって、私たちの恩師「松平和久先生著述集」のご紹介の連載を始められることとなり、嬉しく思います。宜しくお願い申し上げます。

恩師・松平和久先生(プロフィール)

  • 北高在任期間:昭和33年11月~昭和53年3月 国語

 先生は下田北高から東京教育大学に進まれ、卒業後、浜松市立高校で2年半ほど教鞭をとられた後、浜松北高に着任され、以来20年間余り、北高の名物先生として多くの生徒から慕われておりました。

 多くの教え子たちの中でも、松平先生の北高での最初の卒業生(新制14回、3年2組級友・松和会会員)の皆様は、現在に至るまで先生と交流をされており、記念誌「祝・米寿祝・喜寿松平和久先生著述集」(松平先生の米寿、14回生の喜寿を祝う)を、北高同窓会・元副会長・三輪容次郎様などの御協力により、2020年に刊行されました。

 記念誌は、主に芭蕉の「野ざらし紀行」の松平先生による解説文と、先生の身近な話題やご旅行をテーマに書かれた随筆文「先生 折々の記」と、教え子(松和会会員)の皆様の寄稿などでできていますが、この度の「しらはぎ会HP」連載では、松平先生御執筆の「『野ざらし紀行』考」と「折々の記」から、それぞれ一話づつ御紹介していこうと思っています。

 しらはぎ会の皆様にも松平先生のファンが大勢いらっしゃること、さらに、松平先生を知らない世代の皆様にも、この連載を通しまして、先生の素晴らしい授業の一端をお伝え出来れば幸いでございます。

『野ざらし紀行』考 松平和久 -江戸出立- 野ざらしを心に

 千里に旅立ちて、路粮(みちかて)をつゝまず、三更(さんこう)月下無何(むか)に入ると云ひけむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上(こうしやう)の破屋(はをく)をいづる程、風の声そゞろ寒げなり。
 野ざらしを心に風のしむ身哉
 秋と十(と)せ却って江戸を指す故郷
関こゆる日は、雨降りて、山皆雲にかくれたり。
 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き
 何某(なにがし)千里(ちり)と云ひけるは、此のたびみちのたすけとなりて、万(よろづ)いたはり心を尽くし侍る。常に莫逆(ばくぎゃく)の交はり深く、朋友信(しん)ある哉、此の人。
 深川や芭蕉を富士に預けゆく千里

 芭蕉の『野ざらし紀行』を少しずつ読んでいく。芭蕉が故郷伊賀上野から江戸に出てきたのは寛文十二(一六七二)年、いまは貞享元(一六八四)年、出郷からすでに「十とせ」余りが経つ。実は前年母が故郷で亡くなっている。その時芭蕉は帰郷できなかった。このたびの目的の一つは亡き母の墓参である。
 冒頭は荘子や禅僧の言葉を借りて、元和(げんな)偃武(えんぶ)より七十年、泰平の世の旅に出る幸いを述べるのだが、秋風は身に沁みる。総じて悲愴癖のつよい芭蕉は、旅半ばにして死ぬのではないかと思う。己れの雨ざらし日ざらしの髑髏(されこうべ)が心に浮かぶ。
 箱根の関を越える頃は霧しぐれが降っていた。墨絵のような渓谷、遠い富士も見えない。見えないもの、聞こえないもの、不在を使って存在感を示すのは詩人の特技である。芭蕉は興じている。芭蕉の旅には必ず同伴者がいる。能のワキにワキヅレがいるに等しい。苗村千里、粕屋甚四郎についてはこれからも出てくる。

折々の記『四川雑記』 松平和久

 二〇〇三年三月二一日一四時、CA442便で名古屋空港を発ち、重慶に向かう。新型肺炎の話はぽちぽち耳に入っていたが、広東・香港と四川とは遠く離れていると楽観していた。それよりも、米英のイラク爆撃が前日に始まっていたので、もしイラクが強力な大量破壊兵器・生物兵器を持っているとして、もし窮鼠猫を噛むような挙に出たら、東はアフガニスタン・パキスタン・印度と飛び火し、西はトルコ・レバノン・イスラエル・パレスチナに連鎖作用を起こしたら、紛争の種はごろごろ転がっている世界だし、紛争を機に荒稼ぎをしようと虎視眈々爪牙を研いでいるものも五万といるはずだし、・・・。こんなことを案じていてもどうなるものではないという思いと無関係に、想像は増殖作用を起こして、紅海の水面から紅蓮の炎がたぎり立ち、天宙めがけ竜巻状に上っていく光景や、中央アジアの山岳地帯やアラビアの砂漠に砂塵が渦巻き、街や人が次々と岩石と共に地の底に崩落したり砂漠の底に呑み込まれていく光景が浮かんで来たりする。

一、大足

 今回の四川への旅の計画を練るとき、どうしても大足を入れてほしいと申し出たのには、理由があった。大庭みな子の短編「大足」を読んで、そこに普段見慣れているものとは違う仏像のあることを知り、興味をかきたてられたこと。ひょっとすると、大庭さんが聞いたというユーモアに満ちた仏像解説も聞けるかもしれないと思ったからである。

 夕暮れの重慶飛行場の滑走路は雨で黒く濡れていた。夜遅く大足のホテルに着き、床に入る。翌朝も雨は残っていた。四川は巴蜀といわれ、雨の多いところ。晩唐の李商隠の七絶「夜雨北に寄す」は、旅にある詩人が巴山の夜雨を聞きながら、帰郷の時を問うてきた妻に、まだ決まっていないと告げやる詩だが、私は鶏鳴に目覚め、ホテルの広い窓から雨の街を見下ろし、巴山の朝雨鶏鳴に驚くだな、などとたわいないことを考えていた。

 大足には五万余の石仏が幾箇所かに纏まっている。我々は朝食後、城市から15㎞ほど北の宝頂山の大仏湾に出掛けた。観光都市化のすすむ城市は、広い道路が走るが、いったん出外れると、登り勾配の道は泥濘の道に変わる。エンジン出力の弱い車などは難渋していた。宝頂山の駐車場下車、土産物屋や食堂が軒を連ねるなかを抜け、電気自動車に乗ると、じきに大仏湾の入口。雨もよいで空気がよどみ、爆竹の煙硝や線香の匂いが強い。

 寺域に入ると、あふれる緑の中に数宇の仏閣の屋根や岩壁の仏像群を見下ろすことになる。時おり爆竹の音が聞こえる。ハナズオウや、カイドウ・ウツギ・シャガなどが道を飾る。湾という言葉は、我々には海を思わせるが、大仏湾の「湾」は山懐ろの彎曲した水の流れる場所である。切り立つ崖に洞窟なり龕なりを造り、仏像を彫ると「仏湾」。その規模が大きいと「大仏湾」になる。

 日本の普通の寺では、ひとつの堂に多くの仏像がならぶことはあまりない。内陣の隅に、幾代にもわたり檀家が寄進したとおぼしい持仏ふうのものが並ぶことこそあれ、ご本尊ただ一体とか、釈迦如来に文殊・普賢、阿弥陀如来に観音・勢至のごとき三尊形式の堂が多く、仏像の博物館ともいえる東寺の講堂や三十三間堂のような例は少ない。だから、どんな経典に基づいているか、どんなメッセージが含まれているかは、ほとんど考えない。イコノロジーもコスモロジーも棚に上げて、静かな、まれに怒りの仏の顔容を拝んで可しとする。そこには、予定調和の世界を求める思いがある。
 ところが、大仏湾の仏像群はわれわれが馴れ親しんできたものとは余りに違う。全長約五〇〇mの岩崖に、あわせて31の洞窟や仏龕が配され、一万余の仏像があるのだが、個々の洞窟や仏龕の石刻群のメッセージははっきりしている。たとえば、地獄変相龕。横幅20m、高さ15mの岩壁がおよそ四層に分かれる。中央には、最上層とそれに次ぐ層、二層にわたって大きな結跏趺座の地蔵菩薩がおわします。これは地蔵菩薩・閻魔大王同体説に基づくのだろう。その地蔵菩薩の左右には、最上段は菩薩群像、つぎは地獄の司直たる十王とその侍者たちが配される。下の二段は地獄で、そこには牛頭馬頭らとその手で罰せられる人間どものさまざまな姿がある。鉄の歯車で潰す鉄輪地獄、肥溜めに沈める糞穢地獄、沸きたつ油に投げ込む油鍋地獄。そのほか各種の刑具で苛まれる人間ども。地獄変相龕には他にも、世俗の生活がある。飲酒戒は五戒の一つで、それを破ると截膝地獄に落ちる。客に酒を勧める男女がいる。男も女も酔う。はだけた女の胸に手を入れる男、「父を殺し毋を淫す」と解説のついた男もいる。その傍らには首枷の嵌まった男がおり、獄卒に今まさに膝を截られんとする男がいる。剣を振り上げる獄卒の後ろの壁には「不信仏言、後悔無益」と八字句が彫りつけてある。それらの迫真の造形を見ていると、結局これは人間が壊劫まで背負う業だろうと思う一方で、しかし地獄はご免だと思わざるを得ない。

 日本にも地獄絵や六道絵はたくさんある。私はそれらの絵解きを聞いたことはないが、絵は地獄の責め苦は描かれても、多く微細画ゆえにその迫真性は少なく、針の山にも血の池にも、現実生活との関わり・地獄落ちの原因を説く視点がない。
 抽象的記号なのである。大足の地獄変相は、中国でも類例の少ないものだそうだが、これ程の現実主義は日本にはないように思う。

 父母恩重経変相龕には、ふつうの親たちの我が子への思いを造形しようとする現実的な視点がある。肉親愛を煩悩として否定する仏教思想は中国に根付きにくい。そこで儒家的な考え方との折り合いをつけるために作られたのが父母恩重経で、インドに原典を求めることはできず、偽経と考えられているが、日本でも知られているお経のようである。

 この龕には、ある夫婦の育児の歴史が十の場面で示される。「懐胎守護」「分娩受苦」は説明はいらないだろう、「生子忘憂」は子供の誕生を喜ぶ夫婦。「哺乳養育」は母の乳房を含む赤子。「推乾就湿」は、乳房をまさぐる産着の赤子に添い伏した母親が、乾いた布団に赤子を寝かせ、自分は、湿気た布団に寝る像らしい。赤子のおちんちんが出ているのも市井風景らしい。これらの像の間に、父母恩重経らしく「知恩者少、負恩者多」と書かれていた。大方便仏報恩経変相龕には、螺髪の釈迦が父浄飯王の葬儀に当り、「大孝の釈迦仏、親から父王の棺を擔う」という場面がある。釈迦の人間化であり、孝子化である。大庭さんが会った大仏湾のガイドは、誕生するや天上天下唯我独尊といった釈迦、両親を捨てて出家する釈迦を、傲慢で不孝な人だったとおもしろく説明したようだが、そのガイドに会うことはできなかった。できればユーモリストのガイドの肉声を聞くことで、誕生仏は幾度も見ながら、理屈抜きに、じつは何も考えずに聖なる釈迦の奇譚として受け入れる、万事受身の己の精神構造を見つめ直したいと思っていたのだが、叶わなかった。

 日本の仏教世界の造形は、総じて穏やかで、小振りで、抽象的で、力ずくで自省を迫ることはない。それは仏教世界の造形に止まらない。それに慣れている私には、あざといほどの人間くささを表わす大足の石刻は、刺激が強すぎたといえる。