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私はいつの間にか同窓会人間になってしまい、高校の関西同窓会会長のみならず、大学の京滋支部の支部長もしています。先日、大学の支部長会があったので上京しました。その折、同級生の裕美子さんより「軽井沢高原文庫」で開催されている「戦後80年戦後文学を拓いたひとびと~荒正人(まさひと)サイン入り献呈本約500冊一挙公開~」展を見に行きましょう、と誘われました。荒正人さんは文芸評論家です。若い頃、新聞等でお名前はよく知っていました。しかもご長女の植松みどりさんは大学の先輩であり、昨年初めてお目にかかりお話もしましたから二つ返事で行くことにしました。もう一人、裕美子さんの友人で同じく同窓生の典子さんも同行することになり、5月27日早朝の長野新幹線で軽井沢を訪れました。9時前に軽井沢駅に着き、循環バスに乗り(1乗車100円)、バス停から15分ほど大自然の中を歩いて軽井沢高原文庫に到着しました。
入り口で館長の大藤(おおとう)さんにご挨拶して、2階の展示室へ。大江健三郎、安部公房、三島由紀夫等、名だたる作家たちが、戦後文学の草創期に活躍した荒正人に宛て、サイン入りで献呈した約500冊がガラスケース内に展示されていて圧巻でした。
荒正人は埴谷雄高らと文芸雑誌『近代文学』(1946~64年)を創刊し、戦後文学を主導した文芸評論家として知られています。同誌終刊の頃の「寄せ書き帖」も展示されており、大江のことば「荒先生の『五月祭賞』に選ばれて小説を自分の仕事とした」は東大生だった57 年、小説「奇妙な仕事」で大学新聞の賞に応募し、選考委員の荒正人から高い評価を得て受賞したことが作家デビューにつながった、ということです。そこで私が高校2年生の時、現代国語の授業で田中高志先生が「奇妙な仕事」をプリントして来て読ませたことを鮮明に思い出しました。まさに田中先生が大江のこの作品がデビューのきっかけになった、と授業で話されたのです。高校時代の先生の言葉・表情まで覚えているワタクシ。昔のことばかり記憶している完璧老化現象です。また娘に「残り少ないメモリーをそんなことに使わんといて下さい。」と言われそうです。
敷地内に移築されている堀辰雄の山荘、野上弥生子の書斎を見学して、先ほど高原文庫に来る直前に見つけた、同じく敷地内にあるカフェ「一房の葡萄」に入りました。有島武郎の童話「一房の葡萄」は中学生の頃読み、美しい女の先生が身を乗り出して、葡萄を一房もいでくれた場面が印象的でした。まるで映画を見たように覚えています。今回懐かしく読み返しました。
そしてなんと、カフェの入っている建物は有島武郎の別荘「浄月庵」を移築したものでした。元々、武郎の父が明治末期、旧軽井沢に建てたものを彼が受け継ぎ、平成元(1989)年に、所有者の「旧軽井沢青年部・樫の実会」から高原文庫に移築した、とは帰宅後、高原文庫に電話して館長の大藤さんより教えて頂きました。カフェ「一房の葡萄」は20年前にできたそうで、つまりここ「浄月庵」は、なんとなんと有島が大正12(1923)年6月9日、中央公論の編集者・波多野秋子と情死した別荘だったのです。まず、1階のカフェでレアチーズケーキ(ブルーベリージャム添え)とミルクコーヒーを頂きました。丁寧に淹れられたコーヒーも、ケーキも大変おいしく、木立の中の元別荘でゆったりした時間をもつことができました。そこから見える新緑が目に清々しく、裕美子さん、典子さんと話が弾みました。それから2階へ上がり、有島武郎記念室と復元された書斎を見学しました。
それにしても、高校生のときから疑問に思っていたのは有島武郎の死は必ず「情死」という言葉を使うことです。太宰治の時は玉川上水に入水「心中」といいます。芥川龍之介は「自殺」です。まぁ一人でしたからね。「情死」ってあまりに生々しくて死者を鞭打つ言い方ではないでしょうか。今回、帰り道いろいろ考えてみました。有島は妻に先立たれて独身だったが、波多野秋子は夫のいる身、つまり当時の法律で「姦通罪」に問われる話だったのです。実際、有島は秋子の夫に訴えると脅されていたとの記事を見つけました。でも、太宰だって家庭がありました。
初夏の軽井沢はまだ肌寒く、有島武郎が情死した6月9日は雨が降っていたそうです。私は軽井沢の清涼な空気が好きで、何度も訪れています。若い頃の私は、有島のように軽井沢で想い合う男女が一緒に死ぬということに「なんと美しい」とロマンさえ感じていました。がこの歳になってみると、単にすべてを放り出して家族や周りに迷惑をかける行為でしかなかったと呆れます。やはり、私も死者に失礼かしら。
【参考サイト】
(2025.6.4 高25回 堀川佐江子記)