第86回:「ホクシン」見学ツアーと岸和田銘菓「時雨餅」

 小春日和の11月7日、浜松北高関西同窓会のメンバー10名で岸和田市にあるホクシン株式会社の工場見学に行って来ました。岸和田市は大阪府南西部の泉州地区に位置しています。ホクシンは元々、合板(ベニヤ)を作る会社として1931(昭和6)年に創業されましたが、1972(昭和47)年、日本初のMDF(Medium Density Fiberboard 中密度繊維板)を製造した会社です。世界でも4番目だったそうです。今年の関西同窓会総会で講演をして下さいました、入野哲朗さん(高27回)が前社長を務めていらっしゃった関係で特別に見学させてもらえました。
 私事で恐縮ですが、私の実家が浜松で家具製造業を営んでいるため、私は木製品の材料を製造するホクシンのことは入野さんの講演を聞く前から興味津々でした。入野さんと知り合う前はMDFという言葉も知りませんでしたが、つまり、木材チップを繊維状にして接着剤を加え、熱圧成型して作られた板のことです。材料は建築解体チップや製材端材、残材など、そのままでは使えない木材を捨てたり燃やしたりせずに余すところなく利用している、という点に感動しました。

 大きな工場では、チップがベルトコンベアーで運ばれ粉砕するタンクに入れられるところから見せて頂きました。それから接着剤と熱が加えられ、圧縮されて巨大な板になります。様々な厚みの板が作られて、さらにいろいろなサイズに整然とカットされる工程まで、1時間ほど説明を聞きながらたっぷり見学させて頂きました。製品はフローリング、住宅のドア枠・窓枠やカウンター等に使われています。(画像はホクシンのHPより拝借しました)
 環境問題という言葉があまり認知されていなかった頃から、貴重な森林資源を再利用して地球温暖化防止に貢献している会社の見学ができ、大変有意義な時間を持つことができました。

 昼食は岸和田城すぐ近くの「五風荘」という美しい庭園を持つ料理屋さんで頂きました。五風荘は昭和初期、旧寺田財閥当主家の別邸として建設され、岸和田市指定有形文化財となっています。
 その後は、だんじり会館と岸和田城を見学しました。入野さんと夫人の朋子さん(高29回)には盛り沢山のコースを設定していただき、大人の社会見学をさせて頂きました。

 お城のあるところには銘菓があると確信して、昼食を共にした入野さんの知り合いである木材コンビナート協会事務局の西村さんにたずねると、隣の貝塚市にある老舗「塩五」の「村雨」を教えて下さいました。村雨というのは「村雨餡」のお菓子ということで、「村雨餡」とは小豆に米粉と砂糖を加えて蒸し上げたものです。似たようなお菓子が岸和田市、貝塚市に何軒もあります。その日に貝塚市に行くのは無理でしたので、岸和田商店街を通り抜け、岸和田駅前通りにある「だんぢり屋」に行きました。先輩の藤田明友さん(高22回)と浜松から参加された藤本久実子さん(高34回)が同行してくださって心強かったです。
 小ぶりの棹物「だんぢり」と「だんぢり白雪」が並んでいました。白い方の餡が白小豆製と聞き、両方買い求めました。創業は70年前とのことです。見た目はほろほろしていますが、口に入れるともっちりして、甘みは薄く、京都で有名な小倉餡を村雨餡で巻いた「京観世」や「雲龍」の方がずっと甘いと感じました。

 ここで原稿は終わる予定でしたが、7日のツアーで岸和田城に行った折、11月26日に「岸和田城とむらさめ」というイベントがあることを知り、どうしても気になり、前日25日は東京泊でしたが、急遽切符の行き先変更をして、新大阪から地下鉄でなんばへ、そこから南海電車急行で岸和田駅下車、タクシーに乗り岸和田城まで行きました。イベントは岸和田の和菓子屋さん8軒が一堂に会し、1口サイズの「むらさめ」の食べ比べができて商品を買うこともできるというものでした。
 そこで、なぜこの岸和田で村雨のお菓子ができたのかを聞くと、藩主岡部長慎(ながちか)公(1803~33)が「他藩に誇れる独自の風味ある茶菓子を考案せよ」と命を下したから、との事でした。
 しかし終了間際だった為、1切れだけ残っていたのが7日に購入しただんぢり屋のものでした。こうなるとこのお菓子を最初に作ったという竹利商店の「時雨餅」を手に入れたくなり、その場でお店に電話して2本確保してもらいお城を後にしました。徒歩圏内と言われても自力で辿り着ける自信はなく、自転車で通りかかった女性にたずねると、ご親切にお店まで案内してくださったのです。なんていい人でしょう。偶然ですが「昨日京都へ行って来ました。」と言われ驚きました。

 「竹利商店」では年配の女将さんが一人でお店にいて、予約した2本の他にもう2本しか残っていないと「時雨餅」を入れてある大きな木箱を指しました。「お店は300年くらい続いている。以前は妹たちが作っていたが今は自分が一人で作っている。見た目でぼろぼろするという人は食べていない人、食べたら口の中でもっちりする。それは餅粉をつなぎにしているから。元々うちが作っていたが他の店も作るようになった。が、饅頭屋が作るのは饅頭屋の味がする。」意味が分からず聞き返すと「和菓子屋のことを饅頭屋と言うの、この辺では。うちは『時雨餅』しか作っていない。」とのことでした。

 また餅であるのにべたつかず、はらはらとこぼれる様は雨に似て、風味はさながら過ぎゆく秋の時雨のようだ、と藩主より「時雨」の銘を賜ったそうです。「以前は竹の皮で包んでいたが乾燥するので今は違う。」と、色々お話ししてくださいました。途中、ご近所の方が買いに来られ、残りの2本は売り切れました。そのご婦人に「ご自身で召し上がるのですか?」と伺うと「そんなもったいないことはできない。上げるの。」あ~お遣い物にするのね、と思った途端、「その後、お下がりを食べるの」なあんだ、上げるとは仏壇に上げるということか、と笑えました。

 過ぎゆく秋のよい日、再びはるばる岸和田まで行ってよかったです。お味はどちらのお店も甲乙つけがたく、淡い上品な甘みが気に入りました。

【参考文献

  • 「時雨餅の由来」しおり
  • 「岸和田城とむらさめ」チラシ、岸和田市観光振興協会(岸和田城)
  • 「時雨餅竹利商店」『城下町のお菓子』暮らしの設計No127、中央公論社、1979

【参考サイト

2023.11.28 高25回 堀川佐江子記)