第59回:京都南座顔見世の片岡仁左衛門

 師走の京都といえば、南座の顔見世が代名詞のようになっています。わたしは歌舞伎をたまに見ますが、顔見世には一度も行ったことがありませんでした。ここ2年、耐震改装工事のため、会場を他に移していたので新開場記念、さらに南座発祥400年、「吉例顔見世興行--東西合同大歌舞伎」として11月・12月演目を変えて催されています。
 なぜ、「顔見世」というのかは、江戸時代、興行師が俳優を雇用する契約期間は1年で、11月から翌年10月までと定めていたため、11月は各座とも初めて新年度のメンバーで興行し、文字通り観客に新しい顔ぶれを見せる機会だったからだそうです。今日では名古屋・御園座の10月、東京・歌舞伎座の11月、京都・南座の12月公演が恒例となっています。
 会場でもらった番付に「白井松次郎・大谷竹次郎追善」とあったので、おや?と思いました。歌舞伎を主催・製作しているのは松竹株式会社ですが、めでたいから「松竹」という屋号なのかと思っていましたら、何と、松次郎・竹次郎という双子の兄弟が興行師として成功し、後の松竹になったということです。
 11月の顔見世は松本白鴎・幸四郎・染五郎の三代襲名公演でした。私の目的は片岡仁左衛門です。若い頃から、片岡孝夫が好きでした。学生時代、初めて見た歌舞伎が新橋演舞場での孝夫・玉三郎の「女殺油地獄」でした。玉三郎の美しさはもちろんですが、孝夫の美男子ぶりには目が釘付けになりました。「声よし、顔よし、姿よし」とは役者をほめる時に言う言葉ですが、まさに孝夫のためにあるとしか思えません。その後、京都に来て間もない1970年代後半、南座で2回程、演目は覚えていませんが孝夫・玉三郎コンビで見ました。久しぶりに孝夫を見たのが昨年10月の国立劇場での通し狂言「霊験亀山鉾--亀山の仇討--」でした。二枚目が悪党を演じるのもかっこよかったです。

 初体験の南座顔見世。仁左衛門が11月、12月の昼の部、夜の部すべてに出演すると気付いたのが11月半ば過ぎでした。運よく、12月1日の昼の部、3日の夜の部の切符が手に入りました。

 1日は初日、同じく松島屋の片岡愛之助が出演するので、藤原紀香さんを見かけました。長身の美しい人でした。昼の部、第一は「菅原伝授手習鑑--寺子屋--」。昔見たのですが、細かい筋はすっかり忘れていました。まあ、ひどい話です。恩義があるとはいえ、我が子を身代わりに差し出すなんて、と言ってはいけないですね。これは芝居です。
 仁左衛門が出たのは第三「ぢいさんばあさん」です。森鴎外の原作とは驚きました。30代の若者、37年後の老人を見事に演じ分けていました。一方、仁左衛門の妻の方は冒頭、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている姿が孫を抱く祖母に見えて、頭の中で修正が必要でした。訳あって離ればなれになった若夫婦が37年後に再会するシーンでは、きちんと老婆で違和感はありませんでした。この演目は玉三郎と仁左衛門のコンビでもよく演じられるそうです。是非この二人で見たいものだと思いました。

 3日の夜の部は夫と行きました。彼も孝夫の時代からのファンです。第一「義経千本桜--木の実、小金吾討死、すし屋--」で仁左衛門は「いがみの権太」を演じました。「木の実」の段で目の前の花道を白い脚を見せながら小走りに戻って来た時にはドキッとしました。歩く姿はもとより、御年74歳(1944年生)とは到底見えません。夫が「えっ、マジか」とつぶやいたような。自分よりだいぶ年上の仁左衛門がこのはつらつとした若者。かなりショックを受けていて面白かったです。「40年前の孝夫と変わらん」と独り言を言っていました。
 仁左衛門は出ませんが、第三は「弁天娘女男白波(べんてんむすめめおのしらなみ)--浜松屋見世先より、稲瀬川勢揃いまでー」、有名な白波五人男の話です。白波とは泥棒のことで、弁天小僧菊之助がお嬢さんに化けて、浜松屋という呉服屋さんから金をだまし取ろうとする話です。弁天小僧は愛之助が演じました。お嬢さんのふりをしていた弁天小僧がニセモノのお嬢さんでしかも男、と見破られ、開き直って言う台詞が「知らざあ言って聞かせやしょう」です。美しくしおらしい娘が突然、あぐらをかき、もろ肌脱いで言うこの場面は期待通りで笑えました。そして、緋色の長襦袢姿の愛之助が色っぽかったです。
 第四は「三社祭」で踊りの名手と言われた故中村富十郎の長男、鷹之資と仁左衛門の孫、千之助の息のあった踊りでした。10代の大学生コンビは目を見張るほどの上手さでした。将来が楽しみです。
 午後4時50分開演、終了は10時になりましたが、見応えある顔見世でした。昼の部も夜の部も4演目ずつあり長丁場ですが、顔見世には有名な演目が選ばれるのでしょう。3日のうちに2回も仁左衛門を見られて、顔見世初体験は大満足です。

 今回のお菓子は南座の西隣に文政年間(1818?29)よりある「祇園饅頭」です。四条通りのいい場所ですが、高級生菓子ではなく、京都の人が「おまんやはん」と呼ぶお饅頭屋さんです。ここは「ニッキ餅」と「しんこ」が有名です。「ニッキ餅」は餅にニッキを練り込み、中はこし餡です。ニッキの香りとこし餡が不思議とマッチしていて美味しいです。「しんこ」は外郎生地の弾力あるお菓子ですが、夕方だったせいか売り切れていました。
 歌舞伎は幕間に30分間の休憩時間がありますから、皆さんここでお弁当を頂きます。高島屋の地下でお弁当を買い、祇園饅頭で食後のお饅頭も買って席に着きました。

 先ほど、仁左衛門の白い脚にドキッとした、と書きました。今、昔見た「女殺油地獄」を鮮やかに思い出しています。放蕩者の与兵衛(孝夫)が借金に追い詰められ、油屋のお吉(玉三郎)を衝動的に殺害する場面は油まみれになりながらの立廻りで、大きな見せ場です。孝夫の着物の裾がめくれて白い脚が見えたのです。今回、いろいろ調べていましたら、京都育ちの孝夫は関西でのこの演目がブレイクし、東京に出て行ったということです。「長いおみ足の露出が切り札だったと聞く」と書いている人がいて、「やはり」と合点がいきました。そして、玉三郎は油にまみれ、のたうちながらもくるぶしより上は決して見せませんでした。もう一度、玉三郎と孝夫、いや仁左衛門の「女殺油地獄」を見たいと切に願います。お二人とも人間国宝です。

【参考文献

  • 吉例顔見世興行 番付

【参考サイト

(2018.12.22 高25回 堀川佐江子記)