第38回:「萩を愛でる会」と幸田文「雨の萩」

 7年前のちょうど今頃、 涼しくなって間もない時期に知り合いのMさまから 「萩を愛でる会をしますので、お友達を誘っていらしてください」と招かれました。 奈良県天理市にお住まいのその方は、 とても素敵な女性で、私もあのように齢を重ねたいと憧れるご婦人です。 それで、京都の友人4人と、奈良に住む高校の同級生のTさん(男性、拙稿第24回にも登場)と共に出かけました。

 正直なところ、なぜ萩を愛でるのか全くわかりませんでしたが、 奈良時代には、 萩の花見をしたそうです。 最近、わたしの書の師匠、石川九楊先生の 『<花>の構造』  を読んでいましたら、 万葉集に取り上げられた花の数が一番多いのは萩とありました。梅、桜ではないのです。ついでに白状しますと、わたしは仮名が苦手で、長年仮名の手本として、『秋萩帖』を学んでいました。これは国宝に指定されている名品で、 初め東京国立博物館で、その数年後、 京都国立博物館でもガラス越しながら心ゆくまで見ることができました。小野道風、藤原行成の筆と伝承されていますが、実際は違うようです。 巻頭の和歌が「あきはぎの」で始まるため、『秋萩帖』 という呼称の由来となっています。 大変うつくしい書ですが、 何年学んでも仮名はちっとも上達しません。

 思えば拙文を載せて頂いているのは「しらはぎ会」のHPでして、浜松北高校の女子同窓会の名称です。萩は秋の七草(萩、ススキ、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗)の筆頭、秋を代表する花なので草冠に秋、「萩」と書くそうです。 Mさま宅で咲き始めの可憐な萩を見て、 このお庭、このお宅、そして何よりMさまのお人柄があってこその「萩を愛でる会」と思いました。

 ところで、中学か高校の時に何で読んだのか、国語の先生が話されたのか、思い出せませんが、幸田文さんの随筆に、 雨の日訪ねて来たお客さんが、門から玄関までの敷石に植物が倒れて道をふさいでいたのを、傘を傾けてくるくる廻しながら草木をよけて歩いたのが見事だった、という文章がありました。映像で見たかのように印象深く私の中に残っていました。 それが昨日、幸田文さんの『きもの帖』を読んでいたら出て来たのです。すばらしい文章ですので、ここに書き写します。
「秋の長雨がびしょびしょ降って、土も苔もぐっしょりでした。 <中略> 門から玄関への敷石道は、ずっと植えた萩に正体もなく突っ伏されて道がなくなっています。 そこへお客さんが来ました。 <中略> 道は通れません。どうするかと思いました。 そのかたは蛇の目を拡げてそれを横へ倒すと、自分はしおしおと濡れながら、たわわな萩の花を傘で軽く押しやります。 そしてそのまま傘を緩く車のように廻しながら、敷石を一歩一歩と行きます。 行くにつれて傘はくるりくるりと廻り、 濡れた萩は揺れて順々に起きたり返ったりして道を明けます。 ほうっと息の出てしまうみごとなことでした。花もきれい、傘もきれい、足も人もきれい!と感じました。」
あれは萩だったのかと、今更ですが感じ入りました。

 京の萩といえば、御所の東隣にある梨木神社が思い浮かびます。梨木神社は三條実萬(さねつむ)公、三條実美公父子を御祭神とし、「萩の宮」と称するほど境内には萩が咲き誇ることで知られています。 毎年9月中旬には萩まつりが催され、今年は17、18、19日に奉納行事やお茶席が設けられるようです。また京の三名水「醒ヶ井(さめがい)・県井(あがたい)・染井(そめい)」のひとつである染井の井戸が境内の手水舎にあり、今も名水を味わうことができます。尊敬する書の先輩が謡と仕舞も習っていて、その発表会の会場が梨木神社の能舞台でした。3年位前のまさに萩が咲き乱れる季節に拝見しに行きました。

京都暮らしあれこれ
京都暮らしあれこれ

 萩にちなんだお菓子は二条城近くの二條若狭屋の「初萩」と西陣にある本家玉寿軒の「こぼれ萩」です。
初萩は白あんを緑色に染めたものを葛でくるみ、上に萩の花びらを思わせるものが乗っています。こぼれ萩はきんとん製、中は黒粒あんです。こぼれ萩とは散り際の萩の花を表した言葉だそうです。 まさに咲きこぼれる萩。

 「萩を愛でる会」は実は夕食後がメインイベントでした。私たちは和やかに歓談しながら、お食事をごちそうになり、 その後は陶芸家でいらしたMさまのご主人が焼かれたお茶碗で抹茶を点てていただき、そろそろお開きかと思われた時です。突然部屋の明かりが消え、隣室の襖が開くと、行燈(あんどん)の灯りがひとつ。そこには奈良の金春流のシテ方能楽師、 金春康之さんが座っていらっしゃいました。  シテ方とは能の主役のことです。 実は、康之さんはMさまの妹さまのご主人で、 招かれた私たち全員もちろん康之さんの能舞台を何度も拝見しています。 その康之さんがなんと能「黒塚」の謡をして下さったのです。 「黒塚」 というのは、観世流では「安達原(あだちがはら)」といい、 歌舞伎でも「奥州安達原」という演目で上演される鬼女の話です。 一夜を泊めてもらった熊野那智の山伏が、薪を取りに出た老女に、奥の閨(ねや)は決して覗くなと言われたのに、そう言われると覗きたくなるのは「夕鶴」の与ひょうのみならず、私も同じです。 好奇心にかられ、そっと覗くとそこには白骨死体の山、という恐ろしいお話です。 しかしながら金春康之さんがほれぼれする美しい声で謡うのを聞くのは、なんとも贅沢な時間で、ゆらめくろうそくの灯りのもと、一同幽玄の世界に連れ去られた心地でした。この夜のことは忘れられず、萩の頃になると思い出します。

【参考文献】

  • 石川九楊『<花>の構造-日本文化の基層-』ミネルヴァ書房 2016
  • 『今月使いたい茶席の和菓子270品』淡交社 2011
  • 幸田文「雨の庭」『きもの帖』平凡社 2009
    初出『主婦の友』付録、「受身の着方」1954
  • 石原義正『菓匠歳時記』京都新聞出版センター 2005
  • 「黒塚(安達原)」『謡曲集』日本古典文学全集33 小学館 1973

【参考サイト】

(2016.9.4 高25回 堀川佐江子 記)