続編その15:元北高校長・恩田征弥先生からの御便りと「学問の四大志士たち展」の報告

幡鎌さち江(24回
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 しらはぎ会の皆様、お久しぶりでございます。

 最近は、自然災害が世界中で頻発していますが、丘浅次郎が明治時代すでに自然の驚異と環境破壊などの問題を警告していたことの先見性を身にしみて感じる今日この頃でございます。そして、今まさに、大型台風24号が日本列島に最接近している最中ですが、被害が少ないことを祈るばかりです。

 さて、2、3日前に、浜松北高元校長・恩田征弥先生から、嬉しい御便りと一冊の御本を御送り頂きました。恩田先生は平成11年4月~14年3月まで浜松北高に在職されておられました。私は2000年(平成12年)に「しらはぎ会総会」の担当幹事であった御縁で、拙著刊行の折、御連絡をとらせて頂きましたところ、私どもの駄文を御読み下さり、丘浅次郎の墓参や松ヶ岡まで訪れて下さいました。
 この度、御送り頂きました貴重な御本は『 井上靖の浜松時代と作品の世界 ― 浜松を中心に、湯ヶ島・静岡・掛川 』でございます。著者・和久田雅之氏は、恩田先生と御一緒に仕事をされていた40年来の御友人とのことで、元・浜名高校校長などを歴任された方だそうです。大正10年(1921)、井上靖が浜松中学校に首席で入学した前後の話や浜松一中・浜松北高の記事が満載されていて、しらはぎ会元会長・浜松北高同窓会会館館長の松井ひで子さんの御名前も添えられています。

 また、井上靖は拙稿・続編14で御紹介致しました今年4月の「学問の四大志士たち展」の一人、松本亀次郎と御縁がありました。
 掛川市上土方に井上靖揮毫の「松本亀次郎顕彰碑」建っており、井上靖の筆になる碑文は「中国人留学生教育に生涯を捧げた人」との文字が刻まれています。松本亀次郎は、魯迅や秋瑾、周恩来などの師で、2万人に及ぶ中国人留学生を教え、日中友好に偉大な功績を残した人物です。また、掛川市上土方の嶺小学校では5歳年下の吉岡彌生も授業生の亀次郎から指導を受けたとの話です。

 なお、「学問の四大志士たち展」は、首都圏近郊、飯田市・松本市をはじめとする長野県、遠州を中心とする静岡県などから多くの方々が御来場下さり、大変盛況でございました。拙稿・続編10で御紹介した浜松医学校校長の太田用成等の翻訳した医学書『七科約説』上・下2冊と初公開の解剖図を、オープン当日早朝、浜松から伊東政好氏が持参され、貴重な蔵本を会場に展示された直後、新聞社の方が取材に訪れました。(※現在、浜松市中央図書館2階にて10月9日日まで展示、『七科約説』と開明堂、浜松医学校の時代展)

 オープニングセレモニーには丘浅次郎の孫・ひ孫、太田用成の孫・ひ孫、「活人剣の碑」の佐藤進のひ孫、大陸移動説紹介や日本に氷河があったことを発見した近代地理学創始者・山崎直方(※丘浅次郎の三男・英通夫人の父)の孫など四大志士ゆかりのそうそうたる関係者が御集りになりました。セレモニーの御挨拶は、東京会場会長・古畑恒雄氏(※「ねむの木学園」顧問弁護士)の「医学・生物学・経済学・留学生教育などに分野を超えた明治150年に因んだ嘗てないスケールの展示会となったことは素晴らしい…」との御言葉に始まり、掛川市からは足を御運び下さった鷲山恭彦先生(※東京学芸大学元学長、大日本報徳社社長、松本亀次郎の展示をされた)、掛川市副市長などからも、心のこもった御挨拶がありました。会場は、佐藤進と四大志士ゆかりの地から訪れた様々な分野の有名大学名誉教授の皆様、知識人の方々が集い、初対面でも和気あいあいと語り合い、学問や人類の将来を考えるのに相応しい幕開けとなりました。およそ2週間にわたる期間中、狭い会場にも拘わらず約400~500名にも及ぶ大変多くの皆様が訪れて下さり、三遠地方の知られざる偉人にまつわる壮大な「学問が国難を救った善の歴史」と文化を首都圏から発信することが出来ました。ここに厚く御礼申し上げます。

(記 2018.9.30)

(続く)

【出典・参考資料】

  • 『井上靖の浜松時代と作品の世界 ― 浜松を中心に、湯ヶ島・静岡・掛川』著者・和久田雅之
  • 「松本亀次郎」制作鷲山恭彦
  • 静岡新聞 平成29年4月19日朝刊 掲載(西部「この人」恩田征弥)
  • 浜松市中央図書館2階郷土資料室 資料