続編その10:丘ゆかりの島村画伯の話から、浜松医学校までの繋がり

幡鎌さち江(24回
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 2017年4月23日に、しらはぎ会談話室に南信州新聞社の前澤様から連絡がありました。「第2回南信州交流アート展IN飯田」の件につきまして、一筆を執らせて頂きます。
 前回の続編9で紹介いたしました「島村洋二郎の生誕百年の集い」で、信州飯田との関係、さらにこの度、信州飯田から、当地・浜松、そして掛川との新たな繋がりを知り、驚いております。

 前述の談話室で、「浜松静岡 日本医療に多大な貢献をした太田用成…」と書かれていた言葉に、数年前に白川彰先生(※ノーベル賞受賞の白川秀樹博士の御兄様)の御宅に御伺い致しました時、「長く忘れられていた太田用成の御墓を見つけられた」との御話を聞いたような記憶があり、今回、あわてて白川先生の御宅に御電話して確認した次第です。

 やはり、そうでした!
 白川先生が、昭和50年代はじめに「遠州の歴史 その1 浜松医学校」という題で文を書かれており、太田用成御夫妻の写真まで拝見させて頂きました。
 以下、白川先生の文を要約引用させて頂きます。

 太田用成は、弘化元年(1844年)飯田藩士・館野四郎左衛門の三男として生まれ、藩医・太田玄中の養子となって、横浜で米人ヘボンについて医学と英語を学んだ。明治6年、県立飯田病院の副院長となり、浜松県立病院院長として招かれた。太田用成は、なかなかの人物であったらしく、浜松医学校と浜松病院医会を設立したことが特筆される。
 県立病院も、医学校も隆盛であったが、明治13年、県の方針で浜松医学校は廃止され、浜松県立病院も、明治24年には経営困難なため廃止された。
 太田用成は辞職し、のちに掛川病院院長となり、その後、浜松の大工町で開業。明治45年69歳で死去した。墓地は鹿谷町に造られたが、長く忘れ去られていた。この墓を昭和51年晩秋、今は亡き稲留藤次郎先生と一緒に探し出した。高台の雑木林の中に、キリスト教徒であった太田用成御夫妻の御墓が、半ば土中に陥没していたが、落葉を取り去ると「モイセイ用成」という名と並んで奥さんの「リデア頼子」の名が現われた。60年も経っているようには見えないきれいな御墓であった。
 昭和51年12月19日遠江医学会主催で、東京より御孫さんの太田頼成氏を招き、盛大な追悼式が営まれた。木枯らしの中での太田用成の追悼式に参加して、浜松医学校の校長であり、県立病院の院長という著名な医師であったのに、死後わずか60年余りで墓標の所在さえ忘れ去られる現実に、感慨無量であったことを、つい昨日のことのように思い出すのである。

※太田用成の太田家は太田道灌、掛川藩主太田氏に繋がる家系と思われ、大変、興味深いものがあります。

太田用成御夫妻の墓

太田用成御夫妻の写真

 また、はじめに御紹介いたしましたように、長野県飯田市において、「伊那谷アートフェア」が来る6月8日(木)~13日(火)に開催される予定です。

 8日には、島村直子さん(※丘の孫・香西さんと従姉妹)と、古畑恒雄さん(※弁護士、ねむの木学園顧問弁護士)のリレー講演会などが予定されております。
 また、島村洋二郎の作品や太田雅光(※太田用成の子、歌舞伎絵、旧制浜松一中)などが展示されます。
 お近くにお住いで、御興味のおありの方は、是非、どうぞ、足を御運び下さい。

(続く)

伊那谷アートフェアのパンフレット

伊那谷アートフェアのパンフレット

【参考文献】

  • 浜松医科大学付属図書館報「ひくまの」
  • 遠州の歴史 その1浜松医学校 白川 彰