続編その8:四君子と真善美

幡鎌さち江(24回
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 一雨ごとに春の訪れを感じる今日この頃でございます。
 卒業、入学の季節を迎え、母校の後輩の皆様も希望を胸に抱き、新たな門出へと向かう時節となりました。

 さて、先日、丘浅次郎博士ゆかりの貴人の御方から、「四君子」という名の銘茶を頂戴いたしました。「君子」とは、皆様も御存じのように、「古来、文人が目指した徳と学識、礼儀を備えた人物。徳高く、品位のそなわった人格者。」などの意味ですが、「四君子」について、ここで少し御紹介したいと思います。四君子とは、いにしえの賢人が、こよなく愛した4つの植物で、古来、中国や日本の絵画に好んで描かれたということです。

 早春の雪の中で、いち早く清らかな花を咲かせる「梅」。
 気品を備え、ほのかな香気を放つ「蘭」。
 長寿の象徴とされ、晩秋の寒気の中で鮮やかに咲き誇る「菊」。
 青々と真直ぐに伸びる生命力をたたえた「竹」。

 まさに、今、母校を旅立ち、新たな出発をする後輩たちへの「餞(はなむけ)」に、ふさわしい「四君子」ではないでしょうか。

 また、「真善美」とは、よく教育の目標に掲げられる言葉ですが、丘浅次郎の明治38年3月に執筆された「所謂自然の美と自然の愛」という文の中に「真善美」についての興味深い一節があるので、ここで掲げたいと思います。

 「真善美はつねに並べ称して人の理想とするところであるが、その性質を比較すると真と善と美の間にはいちじるしい相違がある。前にも述べたとおり、自然は美でも醜でもなく、美も醜もともにその中に含まれてあるが、善悪に関してもこれと同様で、自然は善でもなく悪でもない。善悪について詳しく述べることは略するが、善と悪との標準はつねにわれわれのほうにあって自然のほうにはなく、われわれは自己の有する標準によって他物をはかりその美醜善悪を評しておるのである。これに反してひとり真だけは標準が自然のほうにあってわれわれのほうにはない。自然自身のありのままがすなわち真の標準であって、われわれはただこれを知ることに向うて徐々と進みおるのみである。しこうして真に向うて進む方法はただ虚心平気に自然を研究するよりほかにはない。われわれの知識はいずれの方向に向うても実にわずかで、その境を超えれば全く知らぬことのみゆえ、なかなか自然の真、すなわちありのままを知ることはできぬが、つねに怠らず苦心研究すれば漸々(ぜんぜん)一歩ずつ真を知る方向に進むことができる。地球の丸いことを知るにいたったのも、その太陽の周囲を回転するを知るにいたったのも、微細なバイ菌が種々の病を起こすことを知るに至ったのも、みな真に向うて一歩ずつ進んだ結果であるが、科学の求めるところはすなわち真のみである。…(中略)…善と美の標準は時により国により異なることがあるが、真の標準は永久不変であって、これに近づくのがすなわち人知の進歩であるゆえ、ある目的のために故意に真実を曲げて教えたればとてその効能は一時的に過ぎず、一般の人知が進めばたちまち細工が現れてしまう。」

 今、「真」が「ゆらいでいる」と感じる昨今の世を思うとき、丘浅次郎の言の重さを痛感いたします。
「科学」を追求することの意義は、「真」を求めること、その一点にあるのだと、改めて認識させられました。

(次回に続く)

銘茶「四君子」

丘浅次郎著『進化と人生』上・下
講談社学術文庫

丘浅次郎著『進化論講話』
大正3年発行(11刷)開成館

【参考文献】

  • 丘浅次郎著『進化と人生』講談社上
  • 丘浅次郎著『進化論講話』開成館
  • 『広辞苑』岩波書店