続編その6:丘浅次郎の御孫様が遠州のゆかりの地、来訪の巻③

幡鎌さち江(24回
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 続いて、私達一行は、玄関を抜け、1878年に明治天皇が東海・北陸御巡幸で御宿泊された「主屋」(※続編その4に写真掲載)を拝見致しました。

 前述の写真では、「主屋」正面の床の間の框が、一見、普通の框のように見えますが、その框は覆い(※保護する役目)になっていて取り外すことが出来、その下に高貴な客人をもてなす時に使われる高価な漆塗りの框があらわれます。

 主屋から「奥座敷」へと雁行状に続く幅一間の渡り廊下は、天井(※写真①)にアーチ状に曲げられた木材が使用され、「和」から「洋」への空間とつらなる匠の技は必見です。

 奥座敷(※写真②)の柱は、木目が細かい大変貴重な「四方柾目」の檜で出来ています。正面左には平書院、琵琶台を設け、匠の技の粋を凝らした「落し柱」(※写真③)は、現代では、再現が大変、難しいとのことです。床の間の板は松、框は楓、違棚、天井は高く、幅広板を用いた鏡天井など、随所に高度な技術が施され、質の高い空間を創り出しています。

 ここで、明治天皇をお迎えした当時の主を御紹介いたしましょう。
 それは、掛川市の基礎を築いた初代掛川町町長・山崎千三郎(※山崎家8代目・丘浅次郎の従兄弟・山崎覚次郎の叔父)で、掛川銀行設立に関与、初代頭取を歴任、私財を投じて郷土発展の為に尽力した人物です。

 さて、日本地図を開いてみて、皆さん、今、お気づきになる方もあると思います!

 東海道線の沿線の多くが、海岸沿いを走っていることに・・・!そして、静岡県の焼津から掛川、磐田に至る東海道線が、内陸部を通っていることを・・・!

 歴史を顧みれば、東海道線の鉄道が開通は、明治22年(1889)のことです。
 当初、海岸線ならば山も無く建設費も安いという理由で、焼津から海岸沿いに大井川の河口に出て、相良、横須賀を通り、中泉、浜松へと至る計画でした。また、当時の人々は鉄道の効能を知らず、関心を示さないばかりか、鉄道が通ることを忌避する傾向にあったとのことです。

 日本の近代化のためには、「鉄道敷設が最も重要である」と認識していた山崎千三郎は、この路線に断固反対し、有力者たちの協力を求めて、当時の県知事に上申書を提出しました!その結果、現在のような路線に変更されたのです。

 私たち現代人は、この東海道線・路線変更の経緯をあまり知りませんが、東日本大震災の津波被害、原発問題などを目の当たりにした時、海岸沿いから離れて建設されたことの意義と先見性に驚かされます。

 その他、山崎千三郎は、「北部の豊かな森林資源」と「南部の穀倉地帯の米」を中心に、南北の物産を掛川宿に集散させることの重要性に着目しました。
 掛川―森町間の街道を自費で買収、道路を改修して、難所の青田坂トンネル工事などの交通網を整備しました。
 また、掛川名産の茶産業振興、壮大な大井川疎水工事の構想など、郷土発展のため、率先して尽力致しました。

 しかし、明治29年(1896)、千三郎は道半ばで病に斃れ、急逝いたしました。

 掛川市は、現在、このような先人たちの偉大な業績に目を向け、歴史的遺産「松ヶ岡」を後世に残そうと努力しています。未来を担う子供たちのために、官民一体となって「松ヶ岡プロジェクト」を立ち上げ、松ヶ岡の修復と、旧山崎邸の敷地内に建っていた「掛川銀行の復元」(※静岡銀行の前身)を目指しております。

次回に続く。

写真① 廊下のアーチ状の天井

写真② 奥座敷

写真③ 落し柱

【出典】
掛川市ホームページ