続編その5:丘浅次郎の御孫様が遠州のゆかりの地、来訪の巻②

幡鎌さち江(24回
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 「掛川・松ヶ岡」の山崎家は、初代・才兵衛が、元文年間(1736~1741)に、伊達方村寺ケ谷(掛川市)の旧家・山崎弥左衛門より分家して、油商を営み、まもなく掛川城下・西町に店舗を構え、油・蝋燭などを手広く商って、家運の興隆をみました。そして、名を万右衛門(※代々、山崎家は万右衛門を襲名、通称「西万」)と改め、掛川藩御用達を務める家柄の基礎を築きました。

 4代・万右衛門(以善堂)は、掛川藩校教授・松崎慊堂(儒学者)に師事し、学問に秀で商才にたけ、藩政に参画、慊堂とは友人としての交友関係もあったと云われています。さらに、5代・万右衛門の時に、山崎家は葛布(掛川名産)の問屋として、益々の興隆をみるに至りました。

 山崎覚次郎(※経済学者、丘浅次郎の従兄弟)の祖父の6代・万右衛門は、屋敷を西町から十裏、旧瓦屋敷の地に移し、これより土地の名をもって、家を「松ヶ岡」と称しました。そして、丘浅次郎の父・秀興(※造幣局創設の大事業に携わる人材として、明治元年に新政府に登用される)の才能を見抜き、既に江戸時代末、語学・機械・化学などの学問修行の援助を致しました。

 また、親兄妹を亡くし、数え年16歳で天涯孤独の身となった丘浅次郎が、覚次郎と共にドイツ留学をする時、叔父の7代・万右衛門(覚次郎の父)は、留学資金の協力を致しました。

 さて、「松ヶ岡」に到着すると、香西先生御夫妻(丘浅次郎の孫)と私たち一行は、長屋門から、左側に塀を廻らせた中門(※写真①)を通り、その昔、身分の高い人を迎えるときだけ使用したと云われる式台玄関(※式台は桜の一枚板でつくられている)から、迎えられました。

 庭園(※写真②)は、「松ヶ岡」の由来となった見事な赤松の他、楠、杉、躑躅、楓などの樹木、石灯籠、枯山水、池などの景観が、座敷から観賞できるように配されており、沓脱には貴重な鞍馬石が使われています。

 また、明治11年に明治天皇をお迎えするにあたり、浴室・便所棟の改修が行われ、当時としては斬新なデザインの鏡(※写真③)が取り付けられています。

次回に続く。

写真① 中門

写真② 庭園

写真③ 鏡

【出典】
山崎覚次郎 著『貨幣瑣話』
『掛川市史』、『掛川史誌』、『掛川誌稿』
その他、掛川市史料