続編その3:進化論普及の経緯と後日譚

幡鎌さち江(24回
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 皆様、お元気でしょうか?
 「ダーウィン邦訳の起源」の続編で再び「しらはぎ会」の皆様と御目文字できまして、大変、嬉しく思います。

 ダーウィンは、1859年に進化論『The Origin of Species』を発表致しました。(英国)
日本では、1877年(明治10)、東大理学部教授に迎えられたエドワード・モースの講義によって、進化論がはじめて紹介されました。しかし、その後の我が国の事情は、あらゆる階層の人たちが知り得る状況にあった西欧諸国(※イギリスではハックスレー、ドイツではヘッケルなどの尽力)とは雲泥の差であり、そのことを憂えた丘浅次郎は、1899年(明治32)、ダーウィンの進化論を『種の起源』と命名・翻訳し、その抄訳をダーウィン著『種の起源1』『2』として、『動物学雑誌』に発表致しました。そして更に、1904年(明治37)に、『進化論講話』、翌年、『種之起原』などを刊行し、広く日本に進化論を普及させました。

 そして、私たちは2008年頃、この「丘浅次郎」と出会い、進化論を通じて展開された彼の思想の新鮮さに触れ、現代社会の問題点を考える上で大きな指針となるのではないかとの考えに至り、拙著刊行を決意致しました。また、その後、丘を調べるにあたり、多くの素晴らしい方々と出会い、多大な御協力を賜ることが出来ましたことは、大変幸運なことでございました。

 更に、昨年の9月20日、21日には、丘浅次郎の孫である香西理子様・香西茂先生(※京都大学名誉教授)御夫妻を浜松にお招きすることが叶い、丘家ゆかりの場所を御案内することが出来ましたことは、大変、光栄なことでございました。その時、北高恩師・中村明先生(※生物、静岡県立大学名誉教授)にも、お会い頂き、とても嬉しく思いました。

 写真は、磐田市白羽・竜泉寺に残されていた丘浅次郎建立の墓石と、もう1枚は、掛塚の生家跡で1913年4月撮影の「丘家の微笑ましい記念写真」(※香西理子様の母堂・丘説子様のご厚意により御提供頂く。なお、写真左端は丘の五男・直通博士でローレンツの翻訳などをされた動物心理学者。また、右端は三男・英通博士で東京教育大学名誉教授、国立遺伝学研究所で、前述の中村明先生と御一緒された。右中央は丘の長女で歌人・佐佐木信綱の次男・文綱氏に嫁いだ久子様。左中央は四男・正通氏で、夫人は幸田露伴の妹のバイオリニスト幸田幸の娘。左から二人目は丘浅次郎の妻・月子様で男爵・岩村通俊の三女。)

 それでは、この丘の御孫様来訪の御話の続きは次回に!

【参考文献】

  • 『近代日本思想大系9丘浅次郎集』
  • 解説・筑波常治 筑摩書房1974年発行